言うまでもなく、長門有希はＳＯＳ団の誇る万能選手である。
ほとんど全ての事象を難なくこなす長門に匹敵するような万能選手は、世界を探してもそうそういないだろう。
長門が上手く物事をこなすことが出来ずにおろおろする様なんて見たくもない…………訳ではない。
実は結構見たくもある。
それで俺がすかさず長門の手助けが出来れば言うことはない。
まあ、あいつが対応できない事態など、そうそうないだろうがな。
ざあざあと、鬱陶しい雨音を立てながら大粒の雨が降り注いでいる。
そんな天候の中、俺は傘を差して街中を歩いていた。
悪天候のために、不思議探索も休みのはずの日曜日に、なぜ俺が街中を歩いているのかというと、簡単に言えば唯我独尊・天上天下のSOS団・団長、涼宮ハルヒに明日の月曜日にする予定の何かに必要な物を買いに行くように携帯で指示されたわけであり、別に俺が雨の中濡れてまで散歩をしたいほどの散歩好きな訳ではない。
ハルヒに頼まれた(命じられた)買い物も無事終了し、今は家に向かって帰っているところだ。
それにしても、こんなものを何に使うというんだろう？
俺は明日、何か国民的行事があったかどうか考えたが、ハルヒが食いつきそうな節分とか、子供の日とかそんな行事は明日は無い筈だった。
普通に学校あるしな。
まあ、明日になればわかること。ハルヒの思考トレースほどしたくないものはない。
さっさと帰って濡れた体を温めよう…………などと考えていると、俺はとある駅前公園の傍まで来ていることに気がついた。
懐かしい所だ。
初めて長門に呼び出された場所である。
ここにやって来た後、長門のマンションに連れて行かれて、もはや懐かしいといえるあの話を聞いたのだ。あの頃の俺は長門を信じないという今ではありえない行動をしてたんだよなあ。馬鹿だったぜ。俺。
少々懐かしく思いながら、俺は駅前公園の横を歩く。降りしきる雨で視界が極端に悪くなっているため、公園の中も辛うじてしか見えない。
確かあの辺りに長門があの時座っていたベンチがあったはず。
その辺りを目を凝らして見てみた。
その場所に、人影が立っていた。
は？
俺は目を見開いてその人影を凝視する。
ざあざあと形容できるほどの雨の中、その人影は傘すら差していない。
（まさか幽霊か？）
そんな考えなど普通ならしないが、残念ながら俺の周りは普通ではない。そんなことを考えたのも道理だと思ってくれ。
しかしそう考えたものの、すぐに別の考えが浮上した。
確かにこんな雨の中、傘すら差さないのは普通ではない。
そう、普通ではないのだ。
そして俺は、そういう普通じゃない人間を知っていて、色んな面で普通じゃない奴を一人知っている。
まさか、とは思ったが、俺はほぼ確信していた。
知らず知らずの内に、公園内に足を踏み入れてしまっている。
そして人影に近づいて、俺は予測が正しかったことを知った。
「何やってるんだよ、長門…………」
そこに立っていたのは、土砂降りの雨で、濡れ鼠のようになってしまっている長門だった。
ぐっしょりと濡れた髪から、水滴を現在進行形で垂らしつつ、長門は無感動な視線を俺に向ける。
無感動な視線を向けてくる長門は、髪や服が水に濡れているからなのか、少し小さく見えた。
いまさら無駄な気もしたが、傘を差しかけて雨を遮ってやった。
「…………で、何やってるんだ？長門」
長門は俺の質問には答えず、黙って自分の右手に視線を移した。
思わず俺の視線もそちらに惹きつけられる。
その先に見えたのは。
「…………犬、か？」
今までは上手い具合に長門の体に隠れていて見えていなかったが、小さな子犬が長門の傍にいた。
長門が右手にぶら下げているコンビニ袋に噛み付いて動かない。
えーと、つまりこれはこういうことか？
雨が降る前、長門は近くのコンビニに買い物に出掛けた。
帰る途中、餌をねだって来た子犬がコンビニ袋に噛み付いて、身動きが取れなくなった。
そうこうしているうちに、雨が降り出した。
予想を口にすると、長門はあっさり頷いた。どうやら間違いではなかったようだ。
おいおい。
追い払えなかったのか？
「追い払うことは可能だった。ただ、わたしはその選択をしなかった」
いつも通りの平静な口調。
なぜ？
「この子犬は捨て犬」
相変わらずの淡々とした声。
それで？
「わたしが餌を与えなければ、この子犬は恐らく飢えて死ぬ」
だが、その返答は微妙にピントがずれていた。
じゃあ、あげればよかったじゃないか？
「今後、この子犬の面倒は見れない。なのに餌をあげるのは不誠実」
要するに、最後まで面倒見切れんのに、一時の情けで餌をやるのはいかんと？
ならいっそ、飼ってやればいいんじゃないか？
「ペット禁止」
こっちの長門からもこの言葉を聞く事になるとはね。いや、そんな感傷に耽っている場合じゃなかったな。
なるほど、大体事情は飲み込めてきた。
つまり、長門はどう対処すればいいのかわからないのだ。
論理的に見れば、放って置くのが一番いいんだろうが、それは『したくない』。
かといって、ペットとして飼ってやることも『出来ない』。
せめて餌くらいあげたいが、後々まで面倒が見れない以上『するべきではない』。
などなど。
色んな思考が交錯して、どうすればいいのか、どうすることが正解なのか、わからないでいるのだろう。
雨が降り出し、ずぶ濡れになっても動けなくて。
そんな長門は少し―――いや、かなり可愛いと思った。
ざあざあという音がする。
ちなみに、この音は雨の音じゃない。
いや、するけどな。雨の音も多少は。
でもそれじゃない別の原因の音の方が断然大きい。
雨じゃないざあざあという音の原因は、シャワーの音だ。
俺は長門のマンションにお邪魔していて、居間で長門がシャワーから出てくるのを待っている。
何せびしょ濡れだったからな、長門の奴。
―――あれから俺はびしょ濡れの長門を説得し、長門のマンションに来ていた。
もちろん子犬も一緒だ。その子犬は長門がシャワーを浴びるついでに洗われている。
少しばかり羨ましい…………って、健全な高校生がするような妄想をしている場合じゃなかった。
長門があがってくる前に、済ませちまわないとな。
そう考えた俺は、ポケットから携帯を取り出した。
犬の飼い主を探さなければならないのだ。
長門のマンションはペット禁止だし（今はこっそり隠れて連れ込んだ）、俺の家にはシャミセンがいる。
誰かこの犬を飼ってくれる人間が必要だ。
残念なことに、長門には当てがないようだったが、俺にはある。
とても交友関係の広い知り合いがな。あまり頼みごととかはしたくねえが、長門のためだ。仕方ない。
やがて呼び出し音が途切れて、そいつが電話に出た。
『珍しいですね、あなたが僕に電話をかけてくるなんて』
ＳＯＳ団副団長、古泉一樹。
妖しげな超能力者。
こいつ以上に知り合いが多い奴はいないだろう。
「俺もかけるつもりは無かったんだがな。非常事態だ」
『ほう。お聞きしましょう』
こいつに対して回りくどくすることは意味がない。だから単刀直入に言った。
「犬を飼ってくれる奴を探してくれ」
『……』
思った通りの沈黙が返ってくる。
さらに言葉を重ねる気にはならなかったので、俺は黙って古泉の反応を待った。
『……ええと、それは、その、どういうことでしょう？』
「捨て犬を見つけた。見捨てるのは可哀想だ。しかし俺の家にはシャミがいる。俺は飼えん。じゃあ他の奴に飼って貰おう。で、交友関係が一番広い知り合いといえば……お前だ」
端的に状況を説明してやると、古泉はすぐさま反応を返してきた。
『あなたがそんなに慈悲深い方だったとは思いませんでした』
慈悲深いのは長門さ。俺が同じ状況に置かれたら、振り払って見てみぬ振りをするだろうからな。
ちょっとばかし心を痛める程度のことだ。きっと。
「探してくれるか？」
『なぜ、僕が捨て犬の飼い主探しをしなければならないのです？借しにしますよ？』
意地悪く古泉は言うが、古泉の声の調子から古泉が本気で言っているわけではないことはわかる。
古泉は意地の悪い振る舞いをたまにしやがるからな。そういうキャラ設定なんだろう。
だからそこにはあえて触れず、ただこう言った。
「頼む。古泉」
『…………』
暫らくの沈黙の後、
『…………ふう。わかりました。犬を飼える知り合いを探してみます』
と古泉は言った。
「助かる」
『いいえ。気にしないでください。聞くだけならタダですので。では……ああ、そうそう』
電話を切るような感じだったのに、急に古泉は何かを思い出したようだった。
「何だよ？」
『若さのあまり、暴走しないようにしてくださいね』
…………。
は？
「おい、こら古泉？」
『では。失礼します』
狼狽する俺を残して、古泉はさっさと通話を切ってしまった。
…………まさか、長門のマンションにいることがバレてた？
っていうか、俺が長門のマンションにいることがわかっているのなら犬のこともわかってたんじゃないのか？
まさか俺の体に発信機でもついてるんじゃないだろうな。
思わず体の各所を触って点検していると、
「終わった」
いつの間にかシャワーを終えた長門が、背後に立っていた。
ほんの少し上気した頬と、先ほどとは違って暖かく濡れた髪。
来ている服は部屋着のようだ。普通の服も持ってたんだな、長門。
「うおっ？！ お、驚かすな長門…………」
少し焦った。
長門の影から、子犬が顔を覗かせる。
俺は動揺を隠しながら、その子犬を指差した。
「ああ、長門。その子犬のことだけど、大丈夫。何とかなりそうだ」
「そう」
相変わらず淡々とした声。
しかしその声には、ほんの少しだけ安心したような空気が混じっていた。
長門は机を挟んだ向かい側に、きちんとした正座で座る。
それから、近くに引っ付いて来ていた子犬を持ち上げ、自分の膝の上に置く。
長門は手に持っていたタオルで子犬の濡れた毛皮を拭き始めた。
大人しくなすがままになっている子犬。
淡々と無表情に子犬を拭く長門。
俺は暫くそんな平和な光景を眺めていたが、ふと、長門の濡れた髪から水が滴っているのが目に入った。
「おい長門。ちゃんと髪を拭け。風邪引くぞ」
俺の言葉に、長門は髪を見て、首にかけているタオルを見て、それから拭いている犬を見た。
それからまた髪を見て、タオルを見て、犬を…………。
ってこら。
仕方なく、俺は立ち上がって長門の背後に回り、長門の首にかかっていたタオルを取り上げて長門の髪を拭いてやった。
「両手が塞がっていて拭けないと言いたいんだろうが、そうならそう言えよ。言わなくちゃ、何が言いたいのかわからないだろ」
暫く長門が子犬を、俺が長門を拭く音だけが居間に響いた。
大体拭き終わった頃、長門がぽつりと言葉を放った。
しかしその声は小さくて、俺にも良く聞えなかった。
「ん？ 長門、何だって？」
聞き直すと、長門は俺の方を振り向いて、
「言わなければ、何が言いたいのかわからない、とあなたは言った」
確かに言った。
「でも」
でも？
「あなたは、わかってくれる」
思わず硬直した俺に構わず、長門は続ける。
「それに甘えるつもりはない。けれど」
―――嬉しい。
最後の言葉は幻聴じゃないとは思うが、しかし長門が口にしたとしては予想外すぎる言葉だ。
かなり長い間、俺は馬鹿みたいに大口を開けて呆然としていたと思う。
そして長門の言葉を完全に飲み込めた時、思わず長門を抱き締めてしまいそうになり、全精神力を使って思いとどまった。
自分の強力な自制心を誇るべきか嘆くべきか…………。
古泉の『若さのあまり、暴走しないようにしてくださいね』という嫌味な言葉が頭の中を過ぎる。
くそ、古泉め。さりげない呪詛をかけやがって…………。
古泉の言葉のおかげで（あるいは『所為で』）実際に何かしようという気は完全に消えた。
しかしそれにしても、可愛過ぎるぞ長門よ。
俺は長門に気付かれないように、密かに嘆息した。
雨はまだ降り続いていた。
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