最初、俺は一体全体何が起こっているのかわからなかった。
目がおかしくなったのかと思って目を擦って見たが効果なし。
依然としてそれは俺の前に現実として堂々と姿を晒していた。
目を疑った後は頭だ。ついに俺の頭がいかれちまったんだろうか?
この部室は何か色んな力場が充満しているらしいし、それに当てられて幻覚を見出したのかもしれない。
現実逃避だと思うか? 現実逃避もしたくなるさ。
―――部室が、人外魔境と化していた。
ことの発端は国木田が教室で何気なく、口にした話だった。
その時、俺と国木田と谷口はいつも通りに男三人むさくるしい顔を突き合わせて食事をしていたのだが、国木田が何の拍子だったかこんなことを言い出したのだ。
「そういえばさ、この前見た本に動物占いってのがあったんだけど」
女子じゃあるまいし、何故に占いの話をしなくちゃならんのだ、と俺は思ったが無理矢理止めさせるような話でもなかったから適当に聞き流していた。
谷口は飯を口の中に掻っ込むので忙しかったから、止める奴はいなかった。
「『自分を動物に例えると?』っていう質問から始まるんだけど…………自分がどの動物かなって考えたことある?」
「ねえよ」
「キョンは犬かな。凉宮さんの」
笑顔で喧嘩売ってんのか。
「冗談だよ。どちらかというと馬かな?」
「キョンはそんな高尚な動物じゃないぞ」
「それもそうか」
お前らな。友達を止めたいんだったらいつでも言ってくれ。喜んで縁を切ってやろう。
その場ではそれだけの話だったのだが、その話をハルヒに聴かれたのがまずかった。
俺はその時見ていなかったが、もしもハルヒを見ていたら、何かを企んだ時の顔をしているハルヒが見えていたことだろう。
そんな会話が繰り広げられた三日後、部室は人外魔境と化したわけだ。
もう何が起こったのかわかって貰えただろう。
「…………で、ハルヒ」
俺は頭を押さえながら部室の中に向かって呼びかけた。
「何よ」
少しくぐもった声が返ってくる。
「何してくれてんだ?」
「何って着ぐるみをあんたに被せたんだけど」
…………ツッコむ気力もねえ。
俺の頭には、クリスマスの時に作ったトナカイの被り物が被せられている。
ただしハルヒによる改造が加えられていて、この被り物はトナカイではなく馬のものとなっているが。
どうやらこのハルヒはどういう思考回路によってこの結論に達したのかわからないが、(わかりたくもねえ)SOS団員達をこんなイメージだという動物にコスプレさせてみたくなったようだ。
はっきり言おう。
アホか。
しかし……ある意味まだいいのか?
ハルヒのとんでもパワーで本気で動物に変えられなかっただけましと思うべきか。
「ハルヒ。さすがにこの季節に被り物は暑いぞ。それとお前が何のコスプレもしてないのはなぜだ」
今は夏本番真っ盛りだ。しかも、部室は空気が篭って地獄の如くの暑さになっている。こんな時期にこんな暑いもん被ってられるか。
馬の被り物を頭から取り去りつつ、訪ねた言葉に、ハルヒは自身間何万に。
「あたしだってちゃんとコスプレしてるわよ?ほら」
確かによく見れば頭の上に良く出来たウサギの耳が乗っかっているが…………お前がウサギだというのは絶対に有り得ない。どちらかといえばウサギを捕食する動物の方だ。
「あのー…………これは動物のコスプレじゃないと思うんですけどぅ…………」
そう、ウサギと形容するに相応しいのは誰が見ても朝比奈さんだ。
その朝比奈さんはバニーガールの衣装を着ている。うん、確かにウサギだ。しかし何か間違っているぞハルヒ。
「いいじゃん。丁度バニーガールの奴があるんだから。というか、さすがに着ぐるみは高くて買えなかったわ。カエルの着ぐるみならあるけど…………こっち着る?」
止めておけ、この暑さの中、そんなモン着たら絶対に倒れるぞ。ってかそれぞれをイメージした動物のコスプレじゃなかったのか?お前の中ではイメージがころころ変わるみたいだな、おい。
「涼宮さん、さすがに暑いのですが…………そろそろ勘弁していただけませんか?」
俺が先程この部室を人外魔境に例えた理由の奴が声を上げた。
カエルの着ぐるみを全身に纏った古泉だ。
哀れ、古泉。ハルヒにカエルと形容されただけでなく、全身装備とは。
さすがの古泉の微笑も崩れ去っている。相当中は暑いようだ。しかも無情なことに。
「折角着たんだし、もう少し着といて」
ハルヒ。お前は鬼か? 鬼なのか?
古泉、無理に浮かべた笑顔が引きつってるぞ。気持ちはわからんでもないが、俺は祈ってやるくらいしか出来ん。頑張れ。
さて、ハルヒと朝比奈さんがウサギ(ハルヒに関しては疑問在りだが)、古泉がカエル(色々と小うるさい話をする特徴をよく鳴くカエルと見ればあってる……のか?)、俺が馬と(馬車馬のように働けという意味だろう)…………あと一人はどうした?
「有希ねえ…………ちょっと迷ってるのよ」
ハルヒが悩むなんて珍しい。
「あんたはどう思う?やっぱり猫かしら?犬っていう線もあるわよね」
ハルヒは机の上に犬耳と猫耳を並べて考えている。
どっちも似たようなもんだろうが。
しかし猫、ね。我関せずと孤高に佇む姿は確かにそれっぽいが、猫っていうと少し長門のイメージから外れるような気がしないでもないな。
ハルヒの指示を律儀に守る姿は犬と言えなくもないが、しかしそれはそれで微妙に違う気もする。
そんな風に俺とハルヒが悩んでいると、話題の張本人である長門がゆらりと机に近づいてきた。
じっと机の上に置かれた猫耳と犬耳を凝視している。
そういえば何でこんなものが部室にあるんだ? 愚問のような気もするが。
「買ったのよ。安かったし」
買ったのか。
ああ、こうして部室にわけのわからんものが増えていくんだなあ…………。
そんなことを俺が考えている間もスキャンレーザーみたいな視線を二つの耳に注いでいる長門。
いや、そんなに真剣にならなくても。
不意にその手が動いた。
俺とハルヒ、朝比奈さんと古泉が見守る中、長門は片方の耳を手に取る。
それは―――。
「犬耳ね!有希、そっちがいいの?」
長門はハルヒの声には応えず、犬耳を装着。
暫く動きを止めていたが、いつもの定位置に戻って読書を再開した。
俺は長門の頭の上で揺れている耳を見た。
結構似合ってる。というか似合い過ぎだ。お前。
「さすがは有希ね! ないすちょいすよ!」
何故にひらがな英語?
「うるさいわよキョン! こういうのはノリなの!」
ノリか。お前に言わせると全てがノリで片付けられてしまう気がする。
「とにもかくにもSOS団全員コスプレ完了ね!」
一体何の意味があるのか全く理解出来ないのはいつものことだ。
…………いや、実はちょっとわかるんだよ。きっとハルヒは楽しんでいるだけなのだ。
意味不明なことこそがこいつの楽しみであるのだから。今回のことだってきっと楽しそうだから、の一言で片が付いてしまうのであろう。
やれやれ。
古泉、もう着ぐるみは脱いでもいいと思うぞ。つーか倒れちまうぞ?
「そうですね…………凉宮さんの許可を受けていない段階で…………勝手な行動は慎みたいところですが…………さすがに…………ちょ、っと、めまい、が――――」
カエル超能力者がゆっくりと床に崩れ落ちた。限界だったんだな。
「古泉?!」
ああ、古泉。
永遠なれ。
「死んでませんよ…………」
倒れ込みながらも恨みがましい言葉を返してきやがった。根性あるな、お前。
「古泉君?! ちょっと大丈夫?!」
さすがに病人を出してはいけないと思ったのか、ハルヒは倒れてしまった古泉を抱え上げて部室を飛び出していった。まず着ぐるみを脱がせてやれよ。それと馬鹿力め。古泉も形無しだ、あれじゃあ。
「大丈夫かなあ…………ちょっとわたしも行ってきますね」
朝比奈さんまで行くことはないでしょうに。ていうかあなた今バニーガールですよ!?
段々羞恥心が薄れてきているのだろうか。
それは惜しい人材を失くすことになる。SOS団で羞恥に頬を染める人なんて朝比奈さん以外にいないからな。
と、いきなり袖を引っ張られた。いまこの部室にいるのは俺以外には一人しかいない。
「ん? どうした長門?」
「…………」
光を吸収して輝いているような瞳が俺を見上げていた。
「あなたに頼みがある」
おお、長門に頼まれごとをされるなんて久しぶりだな。
最初に奇天烈話を聞いた時の『信じて』とか、世界を再改変に出向くときの『その時空のわたしに何も話しかけないで欲しい』とか、それを思い出す。
最初のまだ事態が飲み込めていなかったときの頼みはともかく、今はお前の頼みならなるべく叶えてやりたい。
何でも言ってくれ。
「何だ?」
しかし俺に頼みごととはなんだろうか。まさか朝比奈さんみたいに何か手を貸してくれとか言うんじゃないだろうな。俺はあくまでも一般人だし、宇宙的超常現象バトルでは役立たずにしかならないぞ。
一体どんな頼みなんだ?
暫く長門は俺を見詰めていたが、やがて口を開いた。いつもの調子で。
「撫でてみて欲しい」
そうかそうか、そんなことならお安い御用―――はい?
俺の思考が一瞬どころか三十秒くらい硬直してしまった。ようやく復活した俺は、訳がわからず長門の顔を見詰める。
えっと、長門さん?いまなんておっしゃいました?
長門は照れも躊躇も見せずに、先程の言葉を繰り返した。
「撫でてみて欲しい」
それは一体全体どういう理由なんだと問いたくもあったが、しかし長門が言うからには俺に断るという選択肢はない。
「えっと…………いいのか?」
頼まれている立場だが、思わずそう訊いてしまう。長門はこくり、と音がしそうな頷きを返してくる。
理由はわからないが長門がそうして欲しいのなら、やってやろうじゃないか。
右手を伸ばして長門の頭に触れる。付けている犬耳を落とさないように気をつけながら、撫でてやった。
―――うわ、柔らかい髪だな。
ちょっとどきどきしながら撫でていると、ほんの少し長門は目を細め、何か考えているようだった。暫く経って長門は、
「…………ありがとう」
と呟いた。
もういい、ということだろうか。名残惜しく感じつつ、俺は撫でていた手を下ろす。
長門は俺が撫でたために少し乱れた髪を手で整えて、再び読書に戻ろうとする。
ちょっと待ってくれ。夜、眠れなくなるような謎を残していかないでくれ。
何でいきなりそんな頼みを?
俺の問いに、長門はコンマ一秒ほどの感覚で答えを返して来た。
「知りたかったから」
言葉足らずだぞ、長門。
「何をだ」
難しい漢字と、文法と言葉で固められた長門の詳しい説明を簡略化するとこんな感じだ。
『犬は撫でられている時に気持ち良さそうな表情をするが、撫でられるというのはどういう感触なのか、それが知りたかった』と。
…………。
いや、なんとコメントするべきだろう。
「で、その感触とやらは掴めたのか?」
頷きが返って来る。
まあ、長門の知的好奇心を満足させられて良かった点…………のだろうか。
「しかし、それならハルヒでも良かったんじゃないか?」
俺が思わず思ったそのままのことを言うと、
「あなたが良かった」
という返事が返ってきた。
…………いやあ、それは光栄だが…………なんというか、照れる。
つか、少しは恥ずかしがってくれ。俺が馬鹿みたいだ。
長門は似合っていた犬耳を取り外して、今度は机の上に置いてあった猫耳を手に取った。
「もう一つ、頼みがある」
「いや、なんか何を言いたいか凄く良くわかるんだが」
勘弁してくれ。
頭を撫でるのはともかく、喉の下をくすぐるのはさすがに理性が吹っ飛びそうだ。
街でいちゃつくバカップルじゃあるまいし。
「…………そう」
残念そうなのは気のせいだろう。気のせいだ。
罪悪感が湧き出てくるので気のせいだと思おう。
俺は、長門に再び犬耳を装着してやった。
これは別に俺が犬耳フェチだからではなく、猫耳をつけられて『喉の下を――』などと言われたら断れないからな。
犬耳を再装着した長門の頭をもう一度撫でてやる。
長門はされるがままになっていた。
少し気持ち良さそうに見えたのは、気のせいだろう。
|