頬の熱




 涼宮ハルヒが突然何かを言い出すのは、今更言うまでもない奴の習性だが、それでもさすがにその提案は予想外だった。


「プールに行くわよ!」


 ああ、そういえば夏休みにもプールに行ったが、その時もハルヒは突然だったな。いまと同じように、とりあえず水着を持ってどこそこに集合、それからプールに行くわよ…………って。
「おい、こら待てハルヒ」
「何よキョン、文句があるなら言ってみなさいよ。三百六十文字以内で」
 原稿用紙一枚にも満たないじゃないか。
「昨日いきなり電話で『水着を持って集合!』と言うだけ言って電話を切ったことについては、まあいつものことだからもういいけど――」
 俺は自分が着ている長袖の上着と、首に巻いているマフラーを指で示しながら言った。


「いま、十二月だぞ?」


 その俺の台詞を合図にしたかのように、身を切るような凍える風が、棒立ちの俺達五人の間を流れていった。
 思わず肩を竦める四名。無論、例外の一人はこの季節、たまに空から降ってくる者と同じ名前を持った奴だ。
 スペック的な意味でそいつはともかく――他の四人は、この寒空の中プールなんぞに入ったら、それこそ本気で異世界に行っちまうだろう。


 その異世界とは勿論――『あの世』という名前だ。


「お前の頭が年中常夏のようにわけわからんもんで煮えたぎっていることは知ってるが、いくらお前でもこの真冬に冷水に飛び込んだら死ぬだろ」
 もっとも、馬鹿は死んでも治らないというが、ハルヒの場合は馬鹿なんじゃなくて、暴走癖があるだけだからひょっとしたら治るかもしれない。悪癖を治そうとする努力は拍手で讃えてやってもいいが、さすがにその方法は本気でまずいから止めるし、俺たちを巻き込むな。
「なに訳わかんないことをぶつぶつぶつぶつ言ってんのよキョン。あんたにそんなことさせるわけないでしょう。バカは死んでも治らないんだから」
 その台詞は後半分がなければ結構ぐっとくる台詞なんだけどな……それだと、暗に俺がバカであることが確定しちゃってるじゃん。
 一体全体こいつはなにをしたいのか。本気でわからなくなってきたとき、身を切るような寒さの中でもやっぱり胡散臭い微笑みを浮かべた古泉が口を開く。さすがにちょっと笑顔が引き攣り気味だったが。
「なるほど。わかりましたよ、涼宮さんが何をしたいのか」
 わかるのかよ。
「ええ。真冬にプール……とてもミスマッチな組み合わせのように思えますが、そこに一つの言葉を加えるだけでそうではなくなるのです。不思議ですね」
 いちいち回りくどいんだよお前は。なんだよその『言葉』ってのは。
 相変わらず微妙な笑みを浮かべながら、古泉は言った。
「その言葉とは、とても単純な一言です――つまり『温水』、ですよ」








 よくよく考えてみれば、いくらハルヒがめちゃくちゃな奴だとは言え、真冬にプールに入ろうというほどめちゃくちゃな奴ではない。『真冬』に『プール』といっても、そこが屋内でしかもその水が温水であれば問題じゃない。『温水プール』というものがあることを思い出せなかったのは、真冬の寒さによって俺の頭が固まっていたからだろう。たぶん。凍りついて回転しなかったのだ。
 電車とバスを乗り継いで、この地域ではそこそこ有名な屋内温水プール場へと俺達五人はやってきた。
 吹きっ晒しの中で冷えた体が、屋内に入ると同時に暖かな空気に触れて和む。ハルヒは楽しそうな顔で、プール場の受付を行うカウンターに向けて突進していった。
「手続きしてくるから、あんた達はそのあたりで待ってなさい!」
 なにがそんなに楽しいんだろうな。季節外れのプールに入ることがそんなに楽しいのかね。温水プールなんてもんに入るのはよほどのひねくれ物か、変わり者だけだと思っていたが……あ、どっちもハルヒに当てはまるな。
 俺が今更ながらのことに気づいてため息を吐いていると、不意に袖口が引っ張られた。
 こんな動作をする奴はもちろん。
「なんだ? 長門」
 いちいち視線を向けて確認するまでもない。俺の問いに、袖を引っ張っている長門はいつもの平坦な声で聞いてきた。
「聞きたいことがある」
 この時点で大体質問の内容はわかるが、ここは長門に質問の本文まで言わせるべきだろう。こっちで全部やっちまったり言っちまったりするとと長門が成長できないからな。うん。教育とは自分で成長することを促すものであるって奴だ――などとちょっと保護者気分で考えていたら。
「温水プールの概念を教えてほしい」
 予想とは微妙に違う問いかけがきた。思わず俺は首を捻る。
「概念………………?」
「そう、温水という言葉から、温水プールがどのような物なのかは大体想像がつく。だから概念を教えてほしい」
 そりゃまた微妙な…………というか、ややこしくて難しい質問だな…………要するに、普通は冷水のプールの水が温水になっているってだけのことで……いや、それは理解出来てるんだよな。……概念? だめだ、概念というものをどう説明したらいいのかわからねえ。つか、説明できるもんなのか?
「あー、えーと、それは…………つまりだなー」
 助けを求めて他の二人を伺うが、古泉はすました顔で「あなたにお任せします」みたいな微笑みを浮かべてやがるし――どうでもいいが、こいつにはどれくらい微笑みのバリエーションがあるんだ?――未来から来た朝比奈さんに温水プールの概念を説明しろと言っても俺以上に無理だろう。きょとん、と捨てられたことを理解できない子犬のような目をしている。こちらから訴えの視線を撤回する。ハルヒはまだなんか受付でやってるみたいだし……。
 ここは俺が答えるしかないわけだが…………概念?
「うーん…………まあ、要するに、だ」
 長門はスキャンレーザーのような目線を俺に向けている。正直その目はかなりのプレッシャーになるから向けないで欲しいんだけどな…………。
「あー、要するに、だ。…………水がお湯で…………風呂、みたいなものか?」
 なんか違う気がする。自分で言っておいてなんだが。
「うー、違うな……風呂は騒いだら怒られるけど、温水プールは騒いでも大丈夫な風呂みたいな?」
 どういうものかを説明しろ、と言われたら簡単なんだが、概念を説明するというのは難しい。これが精一杯だ。
「とにかく! 入ってみたらわかる!」
 このままだと、支離滅裂でわけのわからないことを口走りそうだったので、俺は無理矢理そう纏めた。
 幸い、長門はそれ以上追求することはなく、
「そう」
 といつものように呟いた。
(ま、百聞は一見に如かずとか言うものな)
 俺は自分自身をそう納得させた。








 ハルヒから渡されたロッカーの鍵を持って更衣室に入ると、そこは非常に閑散としていた。たまたま客がいない時間帯なのか、それともこのプール自体が廃れているのかはわからないが、とりあえず一人も利用者がいない。全くの無音だった。
 いや――耳を澄ませばプールの方から喧噪が聞こえてくる、か。それでも静かすぎるんじゃないか?
「この更衣室は少しプールとは離れたところにあるようですしね。プールに行けばそれなりに人もいるのではないでしょうか?」
 そうかねえ。俺にはとてもそうには思えないが…………。
「とにかく、早く着替えて行きましょう。涼宮さんを待たせるとあとが怖そうだ」
 いつか聞いたことのある言い方で古泉はそんなことをいう。
 それはそうだな。というわけで俺たちは着替え始めた。
 無論、何もなかったとも。何か期待してた奴、いるか?


――あったのはその後だ。


 プールサイドでハルヒたちが来るのを待っていると。
「きょ〜ん〜!!」
 女子更衣室の方から、そんなハルヒの叫び声が聞こえてきた。…………嫌な予感がひしひしと来たぞ。ああ、それにしてもひねくれ者って結構多いんだな、とそこそこ客の入っているプールを眺める。現実逃避? 仕方ないだろう、何があったか知らないが、何か酷い目にあいそうなことはすでに覚悟している。古泉は苦笑を浮かべていた。
 ハルヒの叫びが聞こえて暫く経った頃。
 女子更衣室の出入り口からそのハルヒが飛び出してきた。
「キョーンー!!!」
 ははは、どうしたんだいハルヒ。そんな悪鬼みたいな表情を浮かべて。
 思わず古泉ばりに変な微笑みを浮かべてしまった。
 突進してきたハルヒは俺の首を鷲掴みにして――水着だと、制服のネクタイのように持つところがないからだ――半眼にした目を近づけてくる。ちょ、なんでそんな目を向けられねばならんのだ。
「あんたねぇ! 有希になに変なこと教えてんのよ!」
「はぁ? 変なことってなんだよ」
 本気で覚えがないぞ。
「あんたが言ったんでしょ! 温水プールは、お風呂みたいなものだって!」
 確かに言ったな。概念を訊かれたからしょうがなく。
「有希ったら、それ真に受けて――裸で行こうとしたのよ!? 止めたけど!!」
「はぁ!?」
 ちょ、待て。いや、確かに長門ならやりかねない。やりかねないが――。
「ちょっと待てそれって俺のせいじゃあっ!」
「問答無用!!」
 そう叫びながら、俺の首根っこを掴んだまま、ハルヒは豪快に身体を回転させて。
「有希に変なこと教えてんじゃないわよこのバカ――!」
 一瞬の浮遊感があった。
 ハルヒは俺を振り回す、その勢いを乗せてプールに俺の体を叩き込んだのだ。
 全身を水に打ちつけつつ、俺はプールの監視員の「とびこまないでくださーい」というやけにのんびりした声を聴いていた。


 ……いや、人がぶん投げられているのに、なんでそんなに落ちついてんだよ。








 全くえらい目にあった。
 あの後、監視員から注意を受けたり、ハルヒから申し渡された罰と言う名目で全員にジュースを奢ったり、叩き込まれたときに打ちつけた全身が痛かったりとさんざんだった。
 そりゃ確かに説明が悪かったことは認めなくもないが、まさかそう取ってそうするとは思わんだろ。普通。
 幸いハルヒもそう長い間怒りを持続させる奴じゃないから、暫くすればいつものようにはしゃいでいたが…………。ちなみに当の長門はいつもと変わらず、じっと無表情で俺達を見ていた。
 いま、俺はハルヒに言われて人数分のかき氷を買いに来ているところだ。最初かき氷を売っているのを見たときはなんでそこまで季節はずれなモノを食わなくちゃならないんだと思っていたが…………温水プールで騒いでいると、結構こういう冷たい物が欲しくなる。ニーズは十分というわけだ。
 だからハルヒが欲しいと言い出すのもわからなくはないんだが…………なんで俺が金を出すことが前提なのか。そこはわからない。わかってもわかりたくないが。ともあれ、俺は人数分のかき氷を注文して、作り終わるのを待っているところだ。
 しゃりしゃりという氷を削る小気味の良い音が響いている。断じて真冬に聴く音ではないが、美味そうではある。
「はいよ、お待ち」
 店員がそういって五つのかき氷をカウンターに置いてくれた。お金を払って、財布をパーカーのポケットにしまってから――ふと、問題に気付く。
 かき氷は大きめのコップのような物に入れられている。だから無理をすれば四つまではなんとか持てるが――あと1つが持てない。無理すれば持てるかもしれないが、それで落としたらもったいない。
 人がそれほど沢山はいないとはいえ、大声を出すのは気恥ずかしい。だが仕方ない。声をあげて古泉でも呼んで、いくつか持ってもら――


「…………」


 気配なかったぞ、おい。
 ハルヒ達の方を振り返った俺の目の前に、長門が立っていた。ちなみに長門が着ているのはセパレートタイプの、青い色合いが爽やかな水着だが…………学校の水着を着てくるのではないかという一縷の心配というのか、なんと言うのかは外れてくれた。どうも昨日か一昨日にハルヒに連れられて買ってきたらしい。ハルヒの見立てなのかは知らないが、その水着は長門にとてもよく似合っていた――ってそうじゃなくて。
「どうしたんだ? 長門」
 驚いたせいで一瞬、思考がどっかに行っていたようだ。
 俺の目の前に立つ長門はやはり無表情で俺を見ている。
「…………あなたに謝罪を。わたしの勘違いのためにあなたに不利益をもたらした」
 あー、なるほど。別にもういいのに…………というか、そういうことはもっと早く言っておくべきじゃないか? まあ…………さっきまではハルヒのテンションがすごかったからな。長門も連れ回されていたし――言い出すタイミングがなかったんだろう。
「別にいいさ。気にするな。俺の説明も悪かったんだし」
 長門の性格を考えず、あんな喩えを出した俺のミスといえばミスなんだしな。
 それでも長門は微妙に申し訳なさそうな顔をしているように見えたので、俺はかき氷を一つ渡した。
「ちょうどよかった。一人じゃ全部運べなくて困ってたんだ。長門、自分の分を持ってくれ」
 味は全部違うようにしてある。長門に手渡したのはオーソドックスなイチゴ味だった。最初に選ばせてしまったが、まあいいだろう。文句を言いそうなのはハルヒだが、そのハルヒが真っ先に興味を持ちそうなキワモノ系の味も買ってあるし。
 長門は素直にかき氷を受け取った。俺は残り四つを持ってハルヒ達の方へと歩き出す。その途中、長門は早速かき氷を食べ始めていた。
「うまい?」
「…………冷たい」
 そりゃそうだろうさ。熱かったら宇宙の法則が乱れてるってことだ。そんなのはハルヒの超人パワーだけにしてほしい。
「そりゃそうだろ。…………しかし、まさか真冬にプールに来てかき氷を食うことになるとはな」
 ハルヒじゃなくても来る人間はいるとはいえ、なんとも妙な感じだ。変わり者の仲間入りを果たしてしまっている気がする。
 国木田か谷口に言わせれば「もうとっくに入ってるだろうが」と言われてしまいそうだが……そんなことはないと声を大にして言わせてもらおう。そこは譲れない。
 ハルヒ達がいるところにたどり着いてかき氷を渡していく。ハルヒは即行で食べ始め――礼くらい言え、この野郎――朝比奈さんは可愛らしい笑顔と仕草で礼を言いながら受け取ってくれて――その笑顔だけで十分です――古泉は相変わらず胡散臭い笑顔で普通に礼を言いながら受け取った。椅子と机が置かれているスペースで俺達は暫し季節外れのかき氷を堪能する。
 俺も椅子の一つに腰掛けながら、かき氷にスプーンを突き刺す。
 真冬に食べるかき氷は意外に美味かった。
 ちなみに、ハルヒはやはりキワモノ系の味を選び、当たりだったらしく喜んでいる。朝比奈さんはハワイブルー味を食べながら「なんでこれがハワイ味なんでしょう……?」と首を傾げている。古泉は……何渡したっけ? まあいいや。俺はみぞれ味を食べていた。
 一見すると何もかかってないようにも見えるが、その実、ちゃんと味はついているし、メロンやイチゴと同じで大抵の屋台である、一番オーソドックスな味、つまりは普通の味であるところがいい。それはまるで普通人である俺のようじゃないか……おい、なんだ古泉その眼は。
「いえ。なんでもありません」
 なんでもないってことはないだろう。お前まで俺を変人扱いするのか。俺が正真正銘の一般人だと断言していたのはお前だぞ。
 ……などと追及すれば虚しくなるのはわかりきっていたからしなかったが。
 俺は大人しくみぞれ味のかき氷を食べる。ふと、長門がこちらを見ていることに気づいた。
「なんだ? 長門。みぞれ、食べてみたいのか?」
「どんな味なのか興味がある」
「ただ甘いだけだぞ?」
 みぞれというシロップが正確にどういうものかという知識はないが、味としてはそんな感じだ。
 こういうのこそ、食べてみれば一発でどんな味かわかるんだがな。
「食べてみるか?」
 冗談のつもりだった。みぞれ味のかき氷を乗せたスプーンを長門に向けて差し出したのは。
 そういう冗談が通じない相手だということを失念していた。さっきそれでえらい目にあったばかりだというのに。
 当然の帰結として――長門は素直に俺が差し出したスプーンを口に咥えた。
 俺の動きが完全に止まる。
 俺が手を引かなかったため、長門は自分の身体の方を引き、咥えたスプーンを口から出す。上に乗っていたはずのかき氷は当然なくなっていた。
 柔らかそうな唇を――いままで食べていたいちご味のせいか、いつもよりも赤い――舌が艶めかしく舐める。
「…………確かに、甘い。……美味しい」
「そ、そうか、そりゃ、よかった……な」
 俺はそう生返事を返しながら、そっとハルヒの方を窺う。幸い、丁度ハルヒは朝比奈さんのかき氷を一口貰っていたところのようで、こちらの行動には気づいていなかった。
 ……あぶねえ、なんとかセーフだ。
 ハルヒにさっきの光景を見られたら……絶対、「不純異性交遊禁止――!」とか言ってぶん殴られるか、蹴り飛ばされるか、投げ飛ばされるだろうからな。一日の間に何度も投げられたり蹴られたりしてたまるか。古泉がなんだか含みのある笑顔を浮かべているのは無視だ無視。ハルヒに気づかれなければ、閉鎖空間は生まれないからいいだろう?
 ふう、とにじみ出ていた額の汗を拭うのと、目の前に何か赤いものが乗ったスプーンが差し出されるのは同時だった。
「お返し」
 折角の長門の好意を無下にするのは躊躇われたのだが前精神力を使って辞退し、何とか無事にこの場を済ませることが出来た。なんとなく長門が不服そうだったのは、気のせいではなかっただろうが……勘弁してくれ。さすがに衆目がある状態でそれは恥ずかし過ぎる。
 お互いにお互いのかき氷を食べさせ合う――まるでべたべたな甘い恋人じゃないか。
 でも、もしも、周りに人がおらず、長門と二人だけだったら…………していたかもしれないな。って、何考えてるんだ、俺は。
 俺は冷たいものを食べているのにも関わらず、熱くなった頬を冷やすために、かき氷を多めにすくって口の中に放り込んだ。
 口の中に刺すような冷たさと溶けていくような甘さが広がる。
 ……そういえば、このスプーン、さっき長門が咥えたんだったか。


 そのことを思い出し、かき氷の冷たさで少しマシになった頬の熱が、あっという間に元に戻った。









『eating and eating』終


補足
この小説は、Hiroさんリクエストでした。
・「長門さん(消失で無い方)とキョン君」
・「プールでちょっと甘いもの」
ちょっと甘いもの、になっているのかは疑問ですが。
リクエスト、ありがとうございました!


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