雰囲気




 何故だ。
 俺はそう思った。
 ここはお馴染みのSOS団の部室。
 俺は古泉とゲームをしていて、朝比奈さんがお茶を入れてくれて、長門が部屋の隅で本を読み、ハルヒはネットサーフィン中。
 絵に描いたような平和なSOS団の光景。
 これ以上平和な絵など、そうそうありはしないだろう。


 ……筈なのに。


 なんで部室内の空気がこれほど冷えきっているんだ?
 冷房をつけるのはまだ早い……と言いたいところだが、そもそもこの部室に冷房なんて気の利いたものはない。
 つまりこの冷気は心因性のものというわけで……。
 一体、なにが起こったんだ……?
 俺はついさっき交わした会話を思い返す。








 例のごとく朝比奈さんが入れてくれたお茶を一杯飲むと、めちゃくちゃ旨かった。
 最近は朝比奈さんのおかげでお茶の良し悪しがわかるようになっていたが、その感覚から言っても今回のお茶はすげえ旨い。
「すごい旨いですよ朝比奈さん」
 手放しで褒めると、朝比奈さんは極上のはにかんだ笑みを浮かべる。
「今日は自信あったの。完璧なタイミングで入れられたから」
「これは素晴らしいですね。これで代金を払えと言われたら思わず払ってしまいそうです」
 古泉がそういうが、お前の顔で言われてもな……胡散臭いぞ。
 だが、言葉の内容は納得出来る。
 一万円を出せ、と言われたとしても勢いで出してしまいそうですよ。
「うふふ、褒めすぎです」
「いえいえお世辞じゃないですよ?」
「いいお嫁さんになれますよ」
「ええっ、そんなのまだ早いですっていうか、そもそも向こうでは……いえ何でもないですすいません!」
 慌てふためく朝比奈さんはマジで可愛い。
 さすがはハルヒがマスコットとして拉致してきただけのことはあるっていうのは失礼か。
 俺は湯飲みを持ち上げ、軽い調子で言った。


「いっそ、俺のところに来て欲しいですよ」


 ずずーっとお茶を啜る音だけが部室内に響いた。
 湯飲みをテーブルの上に置く。
 さて、次は駒を何処に進めようか……ん?
 なんか、視線が……。
 俺が盤上から目線をあげると、何故か全員が俺の方を見ていた。
 本を読んでいた長門までこちらを見ている。
 ど、どうしたんだ?
「いいえ、なんでもありませんよ」
 含みのある笑顔で古泉が言う。
 それと同時に、ハルヒがこんなことを言い出した。
「お茶なんて、どうな風に入れたって一緒でしょうが馬鹿キョン」
 馬鹿って言うな。
 いや、実際かなり違うぞ。
「同じなの!」
 俺の反論はハルヒのほとんど怒声で掻き消された。
 なんだ……なんでそんなにムキになってるんだ……?
 大体、ハルヒだっていつだったか朝比奈さんのお茶入れスキルがあがったと褒めてなかったか?
――そんな会話があった後。
 気づいたら部室内の空気が冷え切っていたというわけだ。
 ハルヒはネットサーフィンをしているがどことなく不機嫌そうだし、朝比奈さんは何だか難しい顔をして眉を寄せているし、長門は一見すると何も変わらないようだが俺にはわかる。不機嫌だ。
 古泉だけはいつもの笑みだが……どことなく、大声で笑いそうになるのを堪えているように見えるのは気のせいか?
 ともかく。
 こんな最悪な雰囲気のままで、下校までの残り時間を過ごしていたくなかった俺は空気の緩和を試みた。
「なあ、ハルヒ」
「……なによ」
 一瞬返答に間があったところで、機嫌の悪さが察せられる。
「なんか面白い情報あったか?」
 無難な質問のつもりが、地雷を踏んだらしい。
 ハルヒの不機嫌メーターがさら傾いてしまったようだ。
「なんもないわよ」
 しまった。
 精神的室温がまた三℃ほど下がっちまった。
 次に俺は朝比奈さんに声をかける。
「朝比奈さん、お茶を美味しくいれるコツってなんです?」
「え、コツですか? えーと、お茶っぱの量でしょ、あとは適温のお湯と……お茶っぱにはそれぞれ適温があってね。それを守っていれないと全然おいしくならないの」
「へえ、大変なんですね」
 あ。
 別にそういう意図を込めたわけじゃなかったが、これじゃあついさっきのハルヒの言葉を思いっきり否定したのと同じじゃないか!
 案の定、ハルヒの顔を窺うと不機嫌さが増している。
 自分の得意分野の話をするときは誰だって上機嫌になるものだが、朝比奈さんもハルヒの機嫌がさらに悪くなったことを感じているらしく、怯えていた。
 失敗だ……。
 精神的室温がまた下がった。
 最後の希望、長門に声をかける。
「な、長門。いま何の本を読んでいるんだ?」
「…………」
 ゆっくりと長門は本を持ち上げ、俺に背表紙を見せてくれた。
 ……あいにく、俺にはラテン語の素養はないんだよ。
 というか、その背表紙に書かれた題名が何の言葉であるのかさえわからん。なんとなくラテン語のイメージなんだが……。
 長門よ。声に出して説明してくれ。
 読めないのをわかってやってるんじゃないだろうな。
「面白いのか?」
「ユニーク」
「……どこが?」
「全部」
 あれ、これって最初のころに交わした会話と瓜二つじゃねえか?
 当時と同じレベルで返されているということか、もしかして。
 ハルヒの機嫌はともかく、俺の精神的室温はまた下がった。
 ふと妙な気配に気づいてその気配の方を見ると、古泉が微妙に肩と唇の端を震わせている。
「……なんだ気色悪い。いいたいことがあるなら言えよ古泉」
「い、いえ。なんでも、ありませんよ?」
 ほとんど笑ってるじゃねえか!
 声が微かに笑いで震えてるぞ!
 俺は耐え切れなくなって立ち上がった。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
 誰からも返答はなかった。
 朝比奈さんの視線がこっちを向いたような気もしたが、俺がそちらに目を向けると朝比奈さんは目を伏せてしまっていた。
 ほんと、いったいどうしちまったんだかね。
 部屋の外に出た俺は、すぐ傍の壁にもたれかかって溜息を吐いた。
 やれやれ、だ。
 部室の扉が開いて、古泉が顔を出す。
 なにしに来やがった?
「いえ、少しお話でもしようかと思いまして」
 何だそれは。
 というか、お前はやけに落ち着いているというか、楽しそうだったよな。
 あれだけハルヒの機嫌が悪くなったら、閉鎖空間の一つや二つ出来てたんじゃないのか?
「いいえ。それが一つも発生していません」
 ……だからお前はそんなに余裕なわけか。
「以前なら閉鎖空間が発生していたでしょう。それが発生していないと言うのは機関にとってはよい傾向ですよ」
 しかしなあ……あの空気はなんとか出来ないか?
「僕には無理ですね。あなたの役割でしょうし」
「俺の役割って……勝手に役を割り当てるな」
 大体、なだめようとして失敗しただろ。
 どうするべきか悩んでいると。


「おっ、キョンくんに古泉くんじゃないかっ。そんなところでどうしたにょろ?」


 こんな特殊なしゃべり方をする人は知り合いの中に一人しかいない。
 毎度のことながらやたらとハイテンションかつ陽気な先輩……鶴屋さんが手を振りながら近付いて来た。
「鶴屋さん。どうしたんです? 朝比奈さんに用事ですか?」
 なんだかんだでこの人が部室に来るときはそれが理由の大半だからな。
 鶴屋さんは何が楽しいのか快活な笑顔で大きく頷いた。
「いやぁちょっとしたことなんだけどねっ。ついころっと忘れてたのさっ。めがっさうかつだったよ!」
 カラカラと擬音が聞こえてきそうなほど清々しく笑う鶴屋さん。
 この人はいると一気に雰囲気が明るくなるな……ん、まてよ?
 ――そうだ!
「鶴屋さん、朝比奈さんなら部室の中にいますよ。まあ入ってください」
 俺は部室のドアを開いて鶴屋さんを中に促す。
「それじゃあちょっと失礼するっさ!」
 よし。
 俺には無理でもこの人なら空気緩和出来るかも……!
「こんにっちはー。いやぁハルにゃん、有希っち、みくる! 元気にしてたかなっ」
「あら、鶴屋さん。どうしたの?」
 パソコンの画面から顔を上げたハルヒが鶴屋さんに尋ねる。その表情はまだ微妙に不機嫌そうだ。
 鶴屋さんは一瞬で部室に流れる微妙な空気を感じ取ったようだ。
 一通りSOS団の女性陣を見渡してから、口を開いた。
「ちょっとみくるにいい忘れてたことがあってねっ。それを伝えに来たのさっ。ところでハルにゃん、こんな話が広まっているんだけど、知ってるにょろ?」
 そんな切り出しで始まった鶴屋さんの話は巧みだった。
 普通に話せば大したことがないことなのに、オーバー気味な身振り手振りを交えて、鶴屋さん独特のしゃべり方で話されると、途端に面白い話のように聞こえてくる。
「――っというわけっさ! これは是非とも確かめる価値があるっと思わないかなー?」
「面白そうじゃない! 早速明日にも調査にいくわよ!」
 おお、ハルヒの機嫌が治ってる!
 さすがは鶴屋さん、すげえ。
 ハルヒの機嫌が良くなれば朝比奈さんが怯える理由もなくなり、一気に部室の空気は緩和されていた。
 ある一点を除いて。
「…………」
 さすがの鶴屋さんでも長門の機嫌を治すことは容易ではないだろう。
 長門に関しては時間が経つのを待つしかないか……。
 そう考えていた俺の目の前で、鶴屋さんが素早く長門の傍に移動する。
「有希っこ有希っこ」
 ちょいちょいと言う擬音が付きそうな動きで鶴屋さんが長門の肩を叩く。
 長門は視線を向けたりはしなかったが、鶴屋さんは構わず長門の耳元に口を寄せた。
 何か囁いているようだ。
 暫くして鶴屋さんが離れたとき、何故か長門の機嫌が元に戻っていた。
 いったいどんな手品を使ったんですか鶴屋さん。呪文ですか。あなたもヒューマノイドなんちゃらだったんですか。
 俺は今後のために長門の機嫌を治した方法を訊きたいと思ったが、鶴屋さんは軽いステップで部室のドアまで移動してしまった。
「それじゃああたしはこの辺で失礼するっさ! んじゃあねー……あ、そうだ」
 出ていきかけたところで鶴屋さんは立ち止まり、俺を手招きする。
「なんですか?」
 鶴屋さんはずずいと俺に近付いてきて、内緒話を始める。
 内緒話はいいんですが……ちょっと顔が近いですよ。
 古泉じゃないから気持ち悪くはないが。


「しっかりやんなよキョンくん。世界の平和は君にかかっているのさっ」


 他の奴なら他愛ない冗談と笑い返せる台詞。
 だが俺は驚いて心臓が止まるかと思った。
 まさか鶴屋さんはハルヒのことを知っているのか?
 そう思わせる台詞だった。
 俺が息を詰めている間に鶴屋さんは今度こそ部室から出ていってしまう。
 相変わらず謎な方だ……色んな面で。
 俺は底の知れない鶴屋さんに戦慄する。
 そして、ふと気付いたら――再び部室の空気が冷えていた。
 ……おい、ちょっと待て。なんでだ。
 さっき鶴屋さんのおかげで緩和されたのに、なんでまた逆戻りしてるんだ?
 俺は首を傾げて戻せなくなった。


――結局この日、俺は雰囲気最悪のまま過ごすことになった。








『雰囲気』終
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