長門有希の体験シリーズ
降り積もる白い欠片




 この日、世界は白銀色に染め上げられていた。
 最近暖かくなったと思っていたのに、また急に冬に戻ってしまったかのような気温。
 わたしは、いつものカーディガンの上に、膝の上までくらいの長さのダッフルコートを着込み、暖かくして家を出た。ダッフルには一応フードも付いていたけど、さすがにそれまで被ると不審人物のように見えるので被っていない。
 それでも冷えた外気が隙間から染み込んで来て、わたしは軽く身体を奮わせる羽目になった。
 空を曇天が覆い、どうにもすっきりしない天気だ。
 わたしは冷えてきた指先に息を吹き付けながら、学校に向かう。




 学校に到着して、自分が所属する二年生のクラスに行くと、
「さすがは長門さん。早いわね」
 何故か、朝倉涼子がわたしの席のすぐ近くに立っていた。
 同じクラスじゃない朝倉涼子が何故わたしのクラスにいるのか、わたしの登校時刻を早いというあなたの方がもっと早い、といういわゆるツッコミ所は満載だったけど、わたしは何も言わず(正確には言えず)、自分の席に座った。
 朝倉涼子はわたしの前の席の椅子に無造作に腰掛ける。
「ねえ、長門さん。あなた、彼にチョコをあげたんでしょ?」
 わたしと朝倉涼子の間で買わされる会話で、彼、で示される人は一人しかいない。
 直球な彼女の言葉に、頬が熱くなるのを自覚しつつ、わたしは素直に頷いた。
 彼女の言葉は疑問系だったが、疑問というよりも確認の要素が強かったから、嘘や言い繕いは無駄だと思った。
 予想通り、まあ知ってたけど、という顔をした朝倉涼子は嫌味なく微笑みながら言葉を続ける。
「長門さん。今日は何の日かわかる?」
 しかしその問いは意地悪だ。
 3月14日。
 バレンタインデーと対を成す特別な日。
 わたしだって、もちろん知っている。いや、知っていたからこそ、わたしはいつもより若干早く来てしまったのだから。
 期待と、不安のために、朝早くに目が覚めた。
「ホワイト、デー……」
「正解」
 にっこり笑った朝倉涼子は、椅子から乗り出すように、顔をすぐ至近距離まで寄せてきた。
 そして、囁くように言葉を紡ぐ。
「……実は、彼ももう学校に来てるのよ……何か、大切そうに抱えてたわよ?」
 まさか、それが意味することは。
 思わず問い返そうとしたわたしを軽くかわして、朝倉涼子は立ち上がる。
「放課後を楽しみにしていることね……うふふ……」
 実にお節介な笑みを浮かべながら、朝倉涼子は去って行った。

 わたしは、暫く朝倉涼子の去っていったドアを眺めて、呆然としていた。




 一ヶ月前、わたしは手作りのチョコを作った。
 もちろんそれは彼にあげるためで、彼はそれを受け取ってくれた。
 その時にわたしの思いも一緒に伝えたけれど、彼の答えはまだ聴けていない。
 その後、一週間くらいわたしが風邪で寝込んでいたこともあり、(入院までしてしまった)間が空いてしまっていて、何となくわたしからは訊けず、彼も何も言わなかった。
 彼に嫌われていることはないと……思う。
 けど、そういう想いを返してくれるかどうかは、それは単純な好悪の問題ではない。
 彼は誠実な人だから、きっと真剣に応えをくれると思うけど、その応えがどういうものになるかは、わたしにはわからない。
 だから、わたしは彼が答えを出して、応えてくれる時を待っていた。
 そして早くも一ヶ月が過ぎたのだった。
 答えが返ってくるのなら、この日しかないだろう。
 ホワイトデー。
 バレンタインのお返しの日。
 あの人は、どんな答えを返してくれるのだろう。
 その時を考えると、今からわたしは緊張してしまっていた。




 早く時間が過ぎればいい、と思うと同時に、その時が来て欲しくない、とも思っていたわたしが気付いたら、すでに時刻は放課後だった。
 今日の分の授業は全く耳に入っていなかった。後で復習をしておかなければならない。朝倉涼子は優秀だし、訊けば教えてくれるだろう。わたしの性格上、訊けるかどうかが問題だけど。
 そういうことを考えて現実から逃避したいと思っていた。
 けど、そんな風に違うことを考えて気を散らそうとしても、やっぱりどうしても思考はそちらに行って、また緊張してしまう。
「…………」
 とりあえず、深呼吸をして気を落ち着かせる。
 部室に行く前からこんなに緊張していては身が持たない。
 一回、二回、三回…………。
 だいぶ緊張がほぐれたことを確認。
 よし、行こう。


「何やってるんだ……?長門」


 決心して鞄を取った瞬間、後ろで声がした。
 驚きのあまりわたしは鞄を取り落とす。床に落ちた鞄の中身が散乱し、物凄い音を立てた。
 そちらには目もくれず、わたしは恐る恐る背後を振り返る。
 そこに、彼がいた。
「す、すまん!驚かせちまったか!」
 何でこの教室に彼がいるの、とわたしは内心で叫びながら、破裂しそうなほど鼓動を奏でている心臓を宥めるのに必死になった。
 いま心臓を突いたら誇張無しで破裂するだろう。あまりに鼓動が大きすぎて、体中が心臓になったかのようだ。
「悪い、忍び寄ったつもりはなかったんだが……」
 わたしが深呼吸していたため、彼の接近に全く気付けなかったのだろう。
 見渡してみれば、いつの間にか教室の中には一人もいなくなっていた。クラスメイトの移動にも気付いていなかった。不覚。
「あー、大丈夫か?」
 彼は言いながら散乱した鞄の中身を拾い集めるのを手伝ってくれた。
 教科書やノートくらいしか入っていなかったから、そこは助かったといえる。
「……あ、この本」
 不意に、彼が一つの本を手にとって呟いた。
「これ、あの図書館で借りた奴か?」
 彼がカードを作ってくれた、あの図書館で借りた物だった。
 わたしは訳も無く、頬が熱くなるのを感じつつ、頷く。
 全ての荷物を鞄に詰め込みなおし、わたしと彼は立ち上がる。
 そして部室に行こうと思ったのだけど――――、
「なあ、長門。ちょっと俺に付いて来てくれるか?」
 彼がそんなことを言ったので、わたしは部室に向かいかけた足を止め、早々と歩き出した彼の後を付いていく。
 彼がどこに向かっているかどうかはわからなかったけど、何となく、彼が緊張しているように感じられた。その緊張している空気が、伝染して思わずわたしも緊張してしまう。
 そして、不意にある可能性に思い至った。
 まさか…………。
 わたしが考える間も彼は歩き続け、階段を上がり、そして。


 校舎の、屋上に出た。








 屋上は、閑散としていた。
 誰もいないのは当たり前。
 放課後である上、空は今にも雨が降り出しそうな様子だったから。
 でも、寂しい気持ちにはならなかった。
 何故なら、屋上の上は夜中の間に降ったと思われる―――わたしと同じ名を持つ―――ものに覆われていたからだ。
 例えるならそれは、純白の絨毯。
 一つの乱れもなく整然と『それ』が降り積もっていた。
 彼はその足跡一つ付いていない屋上を歩き、足跡をつけて屋上の中ほどに立つ。
 そしてわたしの方を振り向き、手招きする。
 わたしは歩いて、彼の傍に行った。
 暫し、彼とわたしの視線が交わって、どちらからともなく外した。
 わたしはこれから彼がするであろうことに、言うだろうことに、緊張していた。
 外気はとても冷たかったけど、そんなことが気にならないくらいにわたしは緊張していた。ふと横目で見ると、彼もどことなく緊張しているようで、何度か言い淀み、そして。
 決心したかのように、彼はわたしをまっすぐに見詰める。
 その真剣な視線に感化され、いつもなら思わず俯いてしまうわたしの視線が、まっすぐ彼を見返す。
 内心は恥ずかしかったり緊張したりで大変だったけど。
「あー、こういうのって、初めてだから、どう言ったらいいのかわからんのだが……」
 彼はポケットの中から、綺麗に包装が成された小さな紙袋を取り出す。
 そして、それをわたしに差し出した。
「とりあえず、これはバレンタインデーのお返し……大したものじゃなくて、悪いんだけど」
 身が震えるような(断じて寒さのせいではない)喜びを覚えながら、わたしはそれを受け取った。それ自体は軽かったけど、彼の体温が残っていて、とても暖かい。
 それを見つめていたわたしの視線をどう思ったのか、彼が言う。
「……開けていいぞ」
 その言葉に甘えて、わたしは紙袋を破かないように、そっと開けてみる。
 中から出て来たのは、小さくもなく大きくもない使い勝手が良さそうな本の栞。
 材質は恐らく紙ではない、どちらかと言えば金属のような硬さと質感を持った……けど栞にするには丁度良い柔らかさを持った栞だった。
 その栞の模様は、いままさに周りに降り積もっている結晶の形。


 雪の結晶が綺麗に模様になっていた。


「何をあげたらいいのかわからなくてな……クッキーとかも考えたんだが、どうせなら、いつも使える栞みたいな奴の方がいいんじゃないかって思って……」
 わたしは綺麗に光る栞を元通り紙袋に入れて、落とさないように大事に抱きしめた。
「……ありがとう……大事にする」
 自分でも驚くくらいスムーズに、感謝の言葉が出た。
 彼は一瞬だけ驚きに目を見開き、そして、優しく笑ってくれた。
「そうか。喜んでくれて何よりだ」
 暫く彼は優しく微笑んでいたけど、ふと、また真面目な表情に戻った。
 わたしはその表情の変化の意味が読み取れなくて、不思議に思う。
 何もわかっていないわたしに向かって、彼は次の言葉を紡ぐ。
「……長門。あの、バレンタインデーの時に、お前が言ってくれたことだけど」
 一瞬で何のことかわかった。
 大人しくなっていた心臓の鼓動が、また激しく鳴り始める。
 彼の言葉を聞くのが、正直怖いと感じた。
 けど、逃げ出しはしない。
 真面目な顔をした彼は、わたしをまっすぐに見詰めて言う。
「長門。俺は」
 その時、ふっと、白い空の欠片が落ちて来た。
 わたしも、そして恐らく彼も、それを視界の片隅で捉えていたけど、それは何の妨げにもならず、彼は言葉を紡ぐ。


「俺は―――長門、お前が好きだ」


 瞬間、降って来る雪の量が増し、世界が白一色に染め上げられる。
 さすがに驚いたらしい彼が、一瞬空を見上げて「何の演出だよ」と呟いたが、正直わたしは目の前に広がる光景なんてどうでもよかった。
 ただ、彼の紡いだ言葉が信じられない思いで一杯だった。
 もちろん、彼に嫌われているとまでは思っていなかった。けど、同時に彼がわたしを好いてくれているとも考えられていなかった。
 彼は、三歩ほどの間が開いていたわたしとの距離を、一歩詰める。
「返事が遅れてすまなかった。改めて言うとなると恥ずかしくて、さ」
 また、一歩。
「でも、これが俺の正直な気持ちだ」
 一歩。目の前に、彼がいる。
「長門、お前の『特別』な想いは、俺と同じ意味の『特別』でいいんだよな?」
「…………」
 はっきりと応えてくれた彼に応えるために、わたしはなるべく深く頷いた。
「……なんか、照れくさいな、こういうの」
 照れ隠しなのだろう。彼は赤くなった顔をわたしから逸らして、頭を掻く仕草をしていた。
 もっとも、わたしも人のことは言えないくらいに赤くなっているだろうけど。
 降ってくる雪の量は、視界が遮られるほどで、丁度良く双方の顔が隠れる。
「さて、と。部室に行こうぜ。こんなところにいつまでもいたら風邪を引いちまう。お前にまた風邪なんか引かせたら、朝倉の奴に刺されるかもしれないし」
 彼女はわたしを見守ってくれているけど、さすがにそこまではしないだろう……多分。
 彼の手が、わたしに向かって差し出される。
「行こうか。長……いや――」
 言いかけた言葉を飲み込んで彼は言い直す。


「有希」


 この瞬間の記憶を、わたしは生涯忘れることはないだろう。
 わたしと同じ名を持つ、白いものが降りしきる中。
 とても大切なものを扱うような、優しい呼びかけが響いた記憶。
 わたしは溢れるばかりの喜びと、少しの気恥ずかしさで震える手を、彼の手に絡める。


 わたしに出来る精一杯の、微笑を浮かべて。












『降り積もる白い欠片』終
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