長門有希の体験シリーズ
返せることは




 その日、わたしは布団から起き上がることが出来なかった。


 起きたときから、何かおかしいという気はしていた。
 無性に身体が熱くて、起きたばかりということを考慮に入れても頭がぼんやりとしすぎていた。
 寝ている間に物凄く汗をかいたらしく、湿った服が冷えて寒い。
「…………っ」
 おまけに咳が止まらなくて、通常の呼吸が困難なほど。
 よく感じると、頭痛もする。
 ここまで来て、わたしは自分が風邪を引いたことをようやく悟った。








 考えてみれば昨日、寒空の下で彼を待っていたのがいけなかったのだろう。
 しかも三時間近くも。
 風邪を引かない方がどうかしている。
 それに、わたしは決して人より身体が強くない。(病弱というわけではないけど)
 風邪を引くのは必然だった。
 しかも、昨日はお風呂に入ってすぐに床についてしまった。彼が家まで送ってくれたため、色々と恥ずかしいやら嬉しいやらの感情を誤魔化すための行動だったのが、自ら墓穴を掘った。十分身体や髪が乾いていなかったのかもしれない。
 わたしは激しく咳き込みながらも、何とか起き上がろうと苦心した。
 一人暮らしの身である以上、風邪を引いたからと言ってじっとしているわけにはいかない。何か食べる物を作って栄養を補給しなければならないし、氷を砕いて氷枕なども作らなければならない。
 ああ、それと汗で濡れた服を着替えないと。
 じっと寝ていることは出来ないのだ。
 理性ではそう思うものの、身体は中々思うとおりに動いてくれない。
 掛け布団を身体の上から除けることすら出来なかった。
 咳き込むたびに頭痛が脳髄を抉る。
 目は開いているはずなのに、視界に映る天井は霞んで揺れる。
 熱を持った頭は全然はっきりした思考を維持してくれなくて、今にも意識が途切れそうだった。
 激しい苦しみの中で、不意に死ぬかもしれないという恐怖が湧いてきた。
 わたしは一人暮らし。助けてくれる人はいない。


 いつも助けてくれる彼は、わたしが風邪を引いているなんて知らない。


 電話をしたくても、身体はその電話のところまで動いてくれない。
 このまま、独りで死ぬかもしれない。
 そう思った途端、心臓の辺りが締め付けられるような感触を覚えた。


 嫌だ。


 わたしはまだ彼に何も返していない。
 彼には沢山のことをしてもらった。
 初めて出会った時にカードを作って貰ったことから始まって、本当に沢山の色んなことを。色んなことで助けてもらった。
 わたしは、まだ何も彼に返せていない。
 このまま死ぬのは嫌だ。
 お願い。誰か、助け―――


 一層激しく咳が出て、頭痛が一段と強まる。
 わたしの視界は、意志とは関係なく暗転した。








 誰かの、声が聴こえた。
「……ん……門さん……」
(だれ……?)
 その声に導かれて、わたしの意識が暗い底から浮上する。
「……長門さんっ!」
 鋭い呼びかけに、わたしはようやく薄目を開けることが出来た。
 そこには、わたしがいつも着ているセーラーと同じ物を着た人が。
「長門さん……良かった、目が覚めた……?」
 同じマンションに住む朝倉涼子が目の前にいた。
 いつも快活で微笑んでいる彼女の目が、少し潤んでいる。
 わたしは現在自分がどういう状況にいるのか掴み兼ねた。
 どうやら自分は寝かされているようだ。
 ただいつも寝ている布団の感触とは違う。
 周囲に満ちる雰囲気も違う。
 視界に移るのは朝倉涼子の顔と、見慣れない天井だ。
 ここは、どこだろう。
 その疑問が表情か何かに出たのか、朝倉涼子は目元を拭いながら話してくれた。
「……ここは病院よ、長門さん。学校に行っても長門さんがいなかったことをあの人が不思議がってね。嫌な予感がするっていうから、彼と一緒に様子を見に行ったのよ。そしたら長門さんが高熱を出して倒れてるじゃない……それで救急車を呼んで、病院にね」
「…………鍵は?」
「あら、随分前に言ったでしょ?合鍵を作ったって」 
 そういえば、夏祭りの頃にそんなことを言っていた気もする。あれ以来、使用されてなかったからその存在を忘れていた。
 朝倉涼子はしみじみとした表情で言葉を続ける。
「全く、合鍵を作っておいて良かったわ。彼、インターホンをいくら鳴らしても応答がなかった時に、ドアを破ろうとしたのよ? 結局壊れなかったけどね」
 最近のドアは丈夫だから、と朝倉涼子は朗らかに笑った。
「それで部屋の中に入ってからが素早かったわね……わたしに長門さんの汗で濡れた服を着替えさせるように言って、自分は救急車を呼んだ後、即席氷枕を作ったり……あの手際のよさには関心しちゃったわ。授業ではそんな要領がいい風には見えなかったけど……まあ、頭がいいのと賢いのとは違うしね」
 朝倉涼子は一人で言って、一人で頷いている。
 この人はいつもこうして自分一人で話を進めてしまうため、わたしと会話にならないのだ。もちろん、彼女なりにわたしを気遣ってくれているのだとわかっているけど。
 その彼女の手が動いて、わたしの額に掌を当てた。
「熱も随分下がったし……もう大丈夫ね。彼に御礼しないとね。長門さんの熱が下がり始めるまで、ずっと気を張り通しだったのよ? おかげでほら、心配が無くなったと思ったら……」
 そういって朝倉涼子は自分がいる側の反対側を指差した。
 思わずわたしがそちらに首ごと視線を向けると、そこには椅子に座ったまま寝ている彼の姿があった。
 彼の姿がすぐ近くにあることに驚いていると、朝倉涼子の笑いを含んだ声が聴こえてきた。
「きっと、緊張の糸が切れちゃったのね……お医者さんに『もう大丈夫ですよ』って言われるまでの彼の表情と、言われた瞬間の彼の表情、見せたかったわ」
 携帯で撮っとけば良かったかしら、などと朝倉涼子は本気か冗談か計りかねることを呟く。
 わたしがどう応えることも出来ずにいると、朝倉涼子は笑いながら言った。
「目が覚めたことだし、私ちょっと飲み物買ってくるわね。喉が渇いちゃって。長門さんもいるかしら?」
 そう尋ねられたので、慌てて頷いた。「お茶でいい?」という朝倉涼子の言葉にもう一度頷くと、彼女は含みのある笑顔のまま、病室から出て行った。
「…………」
 なんとなく、この状況を楽しまれて無いだろうか。
 病室で彼と二人きり。
 そんな状況にドキドキしつつ、椅子に座ったまま器用に眠る彼をじっと見詰めた。
 彼は安心しきった顔で寝ている。
「…………」
 まだ少しだけ頭は熱っぽいけど、思考ははっきりしている。
 あの言いようも無い死の恐怖はすでに無い。いざ平常に戻ってみると、あの時の苦しみが嘘のように思えてくる。
 彼に何も返せないまま終わるかと思ったあの時の不安。
 いやそれはいい。
 それよりも。


 もう二度と彼に会えないのか、と感じた時のあの恐怖。


 あの恐怖の方はまだ頭の隅にこびりついている。あれは嘘のように思えることは無い。
 いまだ恐ろしかった。もう少しでそうなるところだったのかもしれないと思うと、胸の辺りが痛くなる。
 ――――けど。
 彼が傍にいるだけで、その恐怖は少しずつ薄らいでいた。
 それ以上は今はいらない。
 彼が傍にいてくれているというだけでいい。
 穏やかな心地で、わたしはゆっくり目を閉じた。


 わたしが彼に何を返せるかを考えながら。










『返せることは』終
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