消失空間
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長門有希の体験シリーズ
彼と彼女




 その光景を見たとき、


 胸が苦しくなって、


 呼吸が上手く出来なくて、


――何故か、泣きそうになった。








 それはある曇った日のこと。
 平常通りに授業が終了して、これから部室に行こうと思っていたとき。
 『彼』がわたしの所にやって来た。


「有希」
 聴き慣れた、優しい声が教室に響いた。
 わたしはすぐにその声を誰が発したのかを理解し、少し慌てて教室の入り口の方を見る。
 そこには予想通りに『彼』が立っていて、いつもの優しい笑顔をわたしに向けていた。
 彼を見て、頬に血が昇るのを感じる。
 思わず咄嗟に目を伏せてしまった。
 まさか、迎えに来てくれたのだろうか。
 そうだとしたら嬉しいけど、いずれにせよ部室に行くのだから、そこまでしてくれなくてもいいのにとも思う。
 迷惑なわけではなく、申し訳なくなるのだ。
 教室の入り口付近にいた彼が傍にやってくるのが視界の端で見えた。
 緊張で心臓が張り裂けそうになる。
 でも、いつまでも下を向いてはいられない。
 持ち上げかけていた鞄を胸の前で抱き締め、ゆっくりと目線をあげ、上目遣いで彼を見る。
 彼は、少しだけ申し訳無さそうな顔をしていた。
 どうしてそんな顔をしているのかわからず、首を傾げる。
 やや間があって、彼が口を開いた。
「……えっと、さ。有希。実は今日、家の用事ですぐに帰らないといけなくて……だから今日は部室の方に行けない」
「え……」
 思わず、半開きになった口から声が漏れた。
 その反応に、彼は慌てたようだ。
「ほんとすまん。明日は行くから」
 彼の申し訳なさそうな言葉が聴こえてくる。
 彼に気を使わせてしまっている。
 それを感じ、衝撃から何とか立ち直った。
 慌てて首を横に振る。
「いい。気にしないで」
 家の用事なら仕方ない。
「……そ、そうか? それなら、助かるんだけど」
 余程家の用事で文芸部の方に顔を出せないことを気に病んでくれていたらしい。
 はっきりとわかるほど、彼は安堵していた。
 そこまでわたしのことを気にかけてくれていたというだけで、十二分に嬉しい。
「気にしないで」
 だから、彼が気に病まないようにもう一度繰り返した。
「ああ、ありがとう。……有希はこれから部室に行くのか?」
 その彼の問いに、少しだけ考える。
 彼がいないというのは寂しいけど、やはり部室に行かなければ落ち着かない。
 だから頷いて彼の言葉を肯定した。
 すると彼は少しだけ厳しい表情になった。
「あんまり遅くならないうちに帰れよ? 今日は送れないんだし、暗くなったら危ないしさ」
 その忠告はとても納得出来るものだったので、わたしはもう一度頷いて彼の言葉を受け入れる。
 彼は少しだけ照れたように笑うと、
「それじゃあ、またあ……あ、いや、また明日」
 何故か一瞬だけ口ごもってそう言った。
 ちょっと不自然な感じだったけど、彼の『また明日』という言葉が嬉しくて、いつもより大きめに頷いた。
 彼は少し慌てた様子で教室から出て行く。
 時間が迫っていたのだろうか、そうなのだとしたら時間を取らせて申し訳なかった。
――と、そんなことを考えていたら。
 不意に、まだ教室に残っていた周囲の人達が、やけに面白そうな顔でわたしを見ていることに気付いた。
 思わず硬直するわたしに対して、周囲の人達の一人が、親指を立てて突き出してきた。
 その他の人達も、わざとらしく咳払いをしたり、小さく口笛を吹いたりしている。
 それらの行動の意味がわからず、どう反応したらいいのかわからなかった。
 かなり遅れて、ようやく彼との関係を揶揄されていることに気付く。
 わたしは先ほどよりも頬が一層紅潮するのを感じ、荷物を抱え直して教室を飛び出した。
 『カワイイー』と言う声が聴こえてきたのは、幻聴ではなかったと思う。




 いまだに頬が僅かに熱いのを感じながら、わたしは廊下を歩いていた。
 こんなことではダメだ、と思う。
 あの人とは『彼氏彼女』の関係になったというのに、わたしはまだ彼に対することになると緊張してしまい、何も出来なくなる。
 遊びに行く(多分デート……なのだと思う)時も、『どこそこへ行こう』と誘ってくれるのはいつも彼だ。
 また、SOS団の校外活動の際、わたしが何らかの失敗をした時、彼はいつも助けてくれる。
 なのに、そのわたしは彼と満足に言葉を交わすことさえ出来ていない。
 話す時はほとんど彼が喋っていて、わたしは彼の言葉に返すだけ。
 しかも声に出せないことも多く、ほとんどは首の動きだけで済ませてしまう。
 彼はそれらのことについて嫌な顔一つしたことはないけれど、わたしは自分で自分が情けなくて嫌で仕方なかった。
 わたしは彼に色々なことをしてもらっている。
 だから、わたしからも彼に何かを返したい。
 そう思っているのに、わたしは何も出来てない。
 少しだけ、溜息を吐いた。
 校舎から部室棟へと移動することが出来る渡り廊下を歩きながら、わたしは外に向かって開いた窓の外を見た。
 曇った空が、ずっと先まで続いている。
 その下に広がる街並みもどこか暗く見えた。
 どことなく、雨が降ってきそうな空模様だ。
 あの人の言う通りに、早めに帰った方がいいのかもしれない……と何気なく思う。
 ふと、その窓から見える校門の辺りを――帰宅部の人達だろう――沢山の人達が歩いているのが目に映った。
 ひょっとしたら彼がその中にいるかもしれない、と思って少しだけ目を凝らす。
 当たり前だが皆同じ制服を着ているので、識別は困難だった。
 この位置からだと後姿しか見えないからなおさら。
 彼はそれほど特徴的な髪型をしているというわけでもない。
 やっぱりわからない、と思い、ちょっとがっかりして目を逸らしかけた。
――その時、一瞬目に入った後姿に、目が自然と吸い寄せられた。
 片方の肩に鞄をかけ、少し急ぎ足で歩く後姿。
 それが『彼』だと直感で理解した。
 その人影をよくよく見てみると、やはり彼のようだ。
 沢山の同じような後ろ姿の中から、彼を見つけ出せたことがとても嬉しかった。
 ほんの少しだけ誇らしいような気分になる。
 彼は急ぎ足で人を追い越しながら歩いていた。
 見えなくなるまでここから見送ろう、とわたしはその場に立ち止まって小さくなっていく彼の後姿を見詰める。
 わたしが見詰める中、彼は校門の近くまで辿り着いた。
 その時。
 校門の影に隠れていたのだろう。
 突然、一人の女生徒が彼の前に跳び出した。
 彼の表情は見えなかったけど、動作から見てかなり驚いたようだった。
 前に立った女生徒は、可笑しげに笑っている。
 遠目だったので一瞬ではわからなかったが、よくよく見ると、その女生徒は朝倉涼子だった。
 彼女も帰るところだったのだろうか。
 でも確か今日は委員会があって、委員長の彼女はそこに出席しているはずでは――?
 疑問が生まれる。
 わたしが悩んでいる間にも、彼と朝倉涼子は何事かを話していたようだった。
 そして、


 二人一緒に並んで歩き出した。


 その光景を見た途端、急に胸が苦しくなった。
 思わず、二人から目を逸らす。
 突然激しくなった胸の鼓動に戸惑い、手を当てる。
 掌からは、不自然に大きな心臓の鼓動が伝わってきた。
 自分の身体の急な変化に戸惑いながらも目線を戻す。
 少し遠くなった二人の後姿が見える。
 二人は何かを話しながら歩いているようだ。
 彼は前を向いたままだったけど、朝倉涼子は彼の方を向いて話している。
 彼女の顔に楽しそうな表情が浮かんでいて、よく唇が動いているのを見て、わたしの鼓動は更に早まった。


 上手く呼吸が出来ない。


 ぐらぐらと視界が揺れる。


 軽い吐き気を覚えて、わたしが思わず口を押さえた、まさにその時。
 朝倉涼子が二歩分ほど離れていた彼との距離を――


 一歩分、縮めた。


 思わず息を呑んだ。
 目を見開いて、その二人の姿を凝視する。
 しかしすぐに、二人の姿は建物の影になって見えなくなってしまった。
 けど、わたしの目には距離を一歩縮めた二人の姿が焼きついたように浮かんでいた。
 鼓動が速い。
 頭の方から血の気が引いていくのがはっきりと感じ取れた。
(何で、彼と彼女が一緒に……?)
 わたしは暫くの間、身動きが取れず、その場で立ち尽くしていた。








 どういうことなのだろう。
 彼と朝倉涼子が並んで帰って行くのを目撃した後。
 わたしは強張る身体を何とか動かし、どうにか文芸部の部室に辿り着いていた。
 椅子に座ったのに、心臓の鼓動はちっとも治まってくれなくて、変わらず速い鼓動を奏でている。
 広げた本を読んで落ち着こうとするけど、視線は本の上を滑るだけで、思考はあの光景に囚われていた。
(なんで、二人が一緒に……?)
 思い出すたび、胸が痛くなる。
 並んだ二人。
 楽しそうに話す朝倉涼子の横顔。
 そして、一歩二人の距離が縮まって……。
 どういうことなのだろう。
 朝倉涼子は委員会ではなかったのだろうか?
 何故、あそこで彼を待っていたのだろう?
 何で、彼と並んで帰ったのだろう?


 何を、あんな風に楽しそうに話していたんだろう?


 わたしには出来ないことをしていた朝倉涼子の姿を思い浮かべた。
 あんなこと、わたしには出来ない。
 楽しく会話を交わすなんて。
 あんなに楽しそうな笑顔を浮かべることなんて。
 わたしには、出来ない。
 いつだってわたしは聞き役で、彼が喋ってばかりで。
 自分から話をしたことも、笑顔を浮かべて相槌を打ったこともない。
 わたしは、何も出来ない。
(やっぱり、彼は……)


 不意に、わたしの脳裏に嫌な考えが浮かんだ。


(……っ)
 浮かんだ考えを強く否定したかったけど、出来なかった。
 彼と彼女は、わたしと彼よりも、仲が良いのではないかという考えを。
 わたしは否定仕切れなかった。
 何故なら、わたしは彼に対して何も出来ていない。
 普通に喋るということでさえ出来ていない。
 いつも黙ってて、無表情で、必ず目を伏せるようなわたしより、楽しい話題を提供し、楽しそうに笑い、臆することなく接してくれる朝倉涼子の方が、良いに決まっている。
 黙って本を読むよりも、あんな風に喋るほうが、彼だって楽しいに決まって




 ばさり、と本が床に落ちる音が、静かな部室に響いた。




 わたし以外に、誰もいない部室。
 本来なら、これこそがわたしには相応しいのではないだろうか?
 誰かに何かをしてもらってばかりの自分。
 そんな自分は、本当は一人の方がいいのではないだろうか?
 そうすれば、誰に迷惑をかけることもない。
 彼に、迷惑をかけることだってない。


 彼と出会わなければ。


 経験したことの無い息苦しさを感じて、わたしは胸元を掴んで蹲った。
 誰もいない部室に、わたし自身の荒い呼気が響く。
 一人ぼっちが自分に相応しいと思ったのに、その一人ぼっちがこんなにも苦しいのは何故なのだろう。
 何故か目の奥が熱くなるのを感じた。
 部室の外から、大きな雨粒が地面に落ちる音が響いてくる。
 雨が降り出した。
 一定のリズムで、雨音は全ての空間を満たしていく。
 当然、部室の中も。


 だから、部室の中で生じた小さな水音は、それに紛れて誰にも――わたし自身にさえ――聴こえなかった。








 髪の毛から水滴が流れ落ちて、わたしの足元に水溜りを形成する。


 わたしは家にようやく家に帰ってきていたけど、土砂降りの雨に打たれたせいで身体はずぶ濡れだった。
 学校に置き傘はしてあったけど、その存在を思い出すことも無かった。
 とにかく何も考える気が起こらず、学校から帰ってくる間の道中、雨に打たれながら歩いた。
 濡れた服や髪が気持ち悪かったけど、それ以上に胸の息苦しさの方がよっぽど気持ち悪かった。
 少しでも気を抜いたら吐いてしまいそうなほど。
 玄関で靴を脱ぎ、床に濡れ跡を残しながら、とりあえずはお風呂場に向かう。
 とにかく身体と髪を拭かなければ風邪を引いてしまう。
 そしたら、また以前のように風邪を引いてしまうかもしれない。
 風邪はこじらせると怖い。あの後、彼にさんざん言われたことだ。
 正直、そうなってもいいや、と思わないでも無かったけど。


 いっそ、そうなってしまえば楽になるんじゃないか、とも思ったけれど。


 服を着替え、濡れた身体を拭き、髪を乾かして、それからリビングに座り込んだ。
 何もする気が起こらない。
 夕食の準備は何もしていなかったけど、食欲なんて欠片もなかったので丁度良かった。
 わたしはリビングに置かれた机に突っ伏して、混乱するばかりで纏まってくれない思考を続けていた。
 明日から、どうすればいいのか、全く見当がつかなった。
 考えようとすると、あの光景が目に浮かんでくる。
 胸が苦しい。
 息が詰まる。
 目が熱い。
 部室にいる間。下校途中の道筋。そこで流し尽くしたと思っていたのに、また涙が溢れてくるのが感じられた。
 服の袖で涙を拭き取りながら、わたしは自分も人並みに泣くことが出来るということに改めて感心してしまう。
 思えばわたしは、彼と出会うまで、全く無気力的な人生を送っていたと思う。
 泣いた覚えは勿論、怒った覚えも、笑った覚えもない。
 単調で何も無い生活。
 本を読むばかりで、他のことは何もしていなかった。
 誰とも会話しないのが当たり前だったし、ましてや誰かと一緒に行動するなんていうこともなかった。
 周囲の世界から隔絶された空間に自分だけがいるみたいだった。
 世界からわたしは影響されず、世界にわたしの影響も無かった。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと。
 そんな、とても静かな、何も残らない無意味な生活。


――それを、彼との出会いが変えた。


 図書館で彼に助けて貰って。
 わたしはようやく世界に参加できたのかもしれなかった。
 彼にお礼を言いたい一心で、彼を探し、見つけても声をかけることが出来ず、遠くから見ていることしか出来なかった。
 それでも、そうしている間はずっと世界は華やかな色彩を持っていた気がする。
 そしてあの冬の日、彼が部室にやって来てからは、毎日が騒がしくて、でも楽しくて、嬉しくて……彼と一緒に過ごす時間は、いつも確かな実感を持てた。
 そして、あの特別な日に、わたしの思いを伝えて……。


――あの白い欠片が降り積もる日に、彼と彼女の関係になった。


 わたしは突っ伏していた顔を上げる。
 やっぱり、わたしは彼と一緒にいたい。
 わたしより、朝倉涼子が彼の傍にいる方がいいのかもしれないけれど。
 朝倉涼子はわたしよりも色んな面で優れているのかもしれないけど。
 それでも、わたしは彼の傍から離れたくなかった。
 これは、我侭かもしれない。
 でも、わたしは彼と一緒にいたかった。
 わたしには何も出来ないのかもしれないけど。


――彼が好きなのだから。


 彼の傍にいたい。
 そのためにも、わたしが彼に出来ることを探さなくてはならない。
 わたしに何が出来るだろう。
 沢山のことをしてくれた彼に、わたしは何を返せるだろう。
 必死に考える。
 と、その時。


 玄関のチャイムが鳴った。


 誰だろう。
 わたしは首を傾げながら、インターホンのパネルに近付いた。
 その直前、いまのチャイムが、下からのものではなく、すぐそこの玄関にあるもので鳴らされたものだということに気付く。
 いまのがが下からなら、新聞の勧誘など、色々と思い当たる候補はあるけど、すぐそこのインターホンからとなると事情が変わってくる。
 相手は一人しかいない。


 朝倉涼子。


 いま、一番会いたくない人。
 時間を確認すると夕食時だし、いつものように夕食を分けにきてくれたのかもしれない。
 それはありがたかったけど、会いたくない。
 どうしようかとインターホンのパネルの前で困っていると、再びチャイムが鳴った。
 思わず、条件反射でパネルを操作してしまう。
『……あー、長門さんー? いつものように夕食のおすそ分け持ってきたわよー。玄関開けてくれるかしら』
 出てしまった以上、もう出るしかない。
 わたしは玄関に歩いて行って、鍵を開けた。
 そしてドアを開こうとしたとき――急に外からドアが引っ張られて、勢い良くドアが開く。


――そして、鋭い破裂音が響いた。


「!?」
 予想していなかった音の衝撃と、何か飛んで来たものに驚いて、わたしはその場で完全に硬直してしまう。
 閉じてしまっていた目を恐る恐る開けると、そこにはにっこりと笑みを浮かべた朝倉涼子。
 そして、隣に彼がいた。
 二人は円錐の形をしたもの――クラッカーを手に持っている。
 先ほどの破裂音はそれからしたものらしかった。
 わたしが事態を飲み込めず、硬直し続けていると、二人が声を揃えて。


「「誕生日おめでとう!」」


 と、言う。
 目を見開いたわたしの視界に、二人だけでなく、沢山の人が玄関脇から出て来た。
「おめでと! 有希ちゃん!」
 涼宮ハルヒ。
「おめでとうございます。驚かせてしまい申し訳ありません」
 古泉一樹。
「あの、大丈夫ですか……? あ、おめでとうございます」
 朝比奈みくる。
「長門さん、おめでとうございます」
 喜緑絵美里。
「本当はもっと沢山呼びたかったんだけどな……でも、あまり良く知らない奴らを呼んでもあれだろ? 谷口とか国木田とか」
「谷口の馬鹿はいらないわよ、五月蝿いだけだし」
「よ、容赦ないですね……凉宮さん……」
「僕も同意しますけど」
「あなたはとりあえず凉宮さんに同意したいだけでしょ?」
「あまり会話を交わしたことがない私はどうしようか迷ったのですけど……朝倉さんが、是非にと。個人的にもお祝いさせていただきたかったですし」
「大丈夫、顔見知りではあるんですから」
「そ、それに、あまり会話を交わしたことがないというなら、あたしも同じです……」
「いや、悪いな、有希。驚かせたくて、黙ってたんだ」
 その彼の言葉に、ようやくわたしの頭が動き出す。
 彼を見詰めると、彼は決まりが悪そうに。
「家の用事って言ったのも実は嘘でさ……このために準備してたんだ。料理とかは朝倉達がやってくれたから、その他の準備な」
「…………」
「今日は委員会あったんだけどねー。他の人に任せちゃった。大事な話もなかったし……今日誕生会をするのは彼に聴いてたから、校門前で待ち構えて捕まえたのよ。何か相談したいって言ってたし」
「…………」
 彼と朝倉涼子はわたしが何も言わないのに、一番気になっていることを自分から話してくれた。
 …………じゃあ、ひょっとして。


 今までわたしが考えてたのは、全部勘違いと先走り?


 自覚すると急に身体から力が抜けた。
 その場に座り込んでしまう。
「ゆ、有希? おい、どうした大丈夫か? そんなに驚かせちまったか?」
 わたしは心配そうに尋ねてくる彼に対してゆっくりと頭を振る。
 あれだけ悩んでいた自分が恥ずかしい。
 ちゃんと確認もせずに先走ったからだ。
「……ほんとに大丈夫か?」
 頷く。
「さて、それじゃあ早速パーティ用に部屋を飾り付けちゃいましょうか。凉宮さん、古泉くん、朝比奈さん、喜緑さん、よろしくね」
「オッケー!! 任せときなさい!」
「了解しました」
「は、はい。わかりました」
「ええ」
 朝倉涼子の号令に従い、他の四人が一斉に動き出す。
 彼に手を借りて立ち上がったわたしは、彼と朝倉涼子に引きずられるようにしてリビングに連れて行かれた。
「有希は座って待ってろ。今日は主役なんだからな」
「そうよー。長門さん。色々余興とか用意したからね。今日は楽しんでね」
 また人にされてばかりだ。
 それではいけないと思ったばかり。
「わたしも」
「手伝わなくていいって」
 彼はそう苦笑しながら言うが、納得は出来ない。
「…………でも」
「いいから座ってろ。それが心苦しいっていうなら……そうだな」
 彼は少しだけ考えて。


「笑うといい」


 と言った。
「?」
 意図がわからず、首を傾げるわたしに、彼は言う。
 優しい笑みを浮かべながら。
「有希が楽しんで笑ってれば十分だ。皆有希の誕生日を祝いたいと思ってきてるんだからな。笑うだけで俺達は今日誕生日会をして良かったと思える。無理に何かしようとしなくていい。ただ、笑えばいいさ」
 彼は続けて。


「有希は、そうしてくれているだけでいい」


 とさすがに少し恥ずかしそうに言った。
 眼を見開いて彼を見ていると、その彼の背中を朝倉涼子が軽く叩いた。
「凄い殺し文句ね」
 嫌味無くにやにや笑っている。
 彼も自分の言ったことがどれほど恥ずかしい台詞かわかっているのか、何も言い返さなかった。
 朝倉涼子はわたしを見て、にっこりと笑う。
「長門さんが楽しんでくれれば、それで十分見返りになるわよ。無理して何かをして貰わなくてもいいわ。それに……皆も皆で楽しんでいるしね」
 彼女の言葉に従って部屋の中を見渡すと、飾り付けをしている涼宮ハルヒ、古泉一樹、朝比奈みくる、喜緑絵美里の四人は、楽しそうな笑みを浮かべていた。
 朝倉涼子は、そっとわたしに耳打ちをする。
「あと……今度は長門さんプロデュースで、彼の誕生日会を開きましょう? だから、ね?」
 優しい笑顔と声に、わたしは自然と頷いていた。
 それを受けて、朝倉涼子は微笑む。
「じゃあちょっとキッチン借りるわね。うふふ、今日の料理は自信作なのよ」
 そういいながら、朝倉涼子はキッチンに入っていってしまった。
「さっき朝倉の家で仕込みをしてるとこ見てたけどな……まじで美味そうだったぞ。期待していい」
 わたしの隣に座っている彼は、そう言った。
 確かに朝倉涼子の料理の腕はよくわかっていることだし、期待が出来そうだ。
 そこでふと、気になった。
 彼は準備をしないでいいのだろうか、と。
 他の人はともかく、凉宮ハルヒ辺りに怒られないだろうか。
 「さぼってるんじゃない!」とか言われて。
 そう思って彼を見ると、彼はそれだけでわたしの言いたいことを理解してくれたようで。
「ああ、部屋の飾り付けやら料理の準備やらはあいつらがしてくれることになってるから大丈夫。……っていうか、俺の役割は『準備が整うまでの間、退屈しないように相手をすること』だからさ」
 役得だ、と彼は言った。
「……ごめんなさい」
 思わず、わたしはそう呟いていた。
 彼は不思議そうな眼を向けてくる。
「なんで謝るんだ?」
「…………いつも、してもらってばかりで」
 わたしが意を決してそういうと、彼はそれを笑い飛ばした。
「何言ってんだ。言ったろ? お前に楽しんでもらえればそれでいいって」
 何でもないことのように。
 そう言ってくれることで、わたしがどれくらい救われているか、あなたにはわからないだろう。 
 いつも。
 何度も。
 わたしはあなたに救われている。
 彼は微笑んだ。
「それに、こういう時は『ごめんなさい』じゃなくて、別の言葉が欲しいな」
 『わかるよな?』と彼は優しく促す。
 こういう時に欲しい言葉。
 勿論、わたしにもわかっていた。
 だから、そのたった一言に、わたしの気持ちを込めた。
 感謝。
 喜び。
 幸せ。
 それら全ての感情を伝えきるには言葉が足りないかもしれない。
 けれど、それらを表すのに相応しい言葉。




「……ありがとう」










『彼と彼女』終
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