長門有希の体験シリーズ
特別




 特別な一日が、始まった。




 わたしは学校への路を歩きながら、鞄の中に入れてきたモノについて思う。
 それは、この日ならば誰でも一度は意識するモノで。
 わたしはそれを鞄の中に入れて持ってきていた。
 本来これは学業には全く関係のないもので、だから学校には持っていってはいけないのだけど、でも。
 いくらなんでも放課後、彼をどこかに呼び出すなんてことは出来ない。
 彼を呼び出すことを考えるだけで顔に血が上って赤くなるのに。
 そんなことは出来ない。
 だから、『これ』は学校で彼に渡す。
 そう決めていた。








 ようやく放課後になった。
 待ち望んでいたのに、いざ来るとしり込みしてしまう。
 もっと時間が欲しかったような気もするけど、放課後になってしまった。
 わたしは大きく深呼吸をし、意を決していつもの場所に向かう。


 文芸部部室に。








 文芸部部室に着くと、わたしはいつもの場所に座り、本を広げる代わりに『それ』を膝の上において彼が来るのを待ち構えた。
 『それ』をわざわざ膝の上においたのは、逃げられないようにするため。
 わたしの性格上、きっと鞄の中に入れておいたら、彼が来ても出すに出せず、結局渡せないまま終わってしまう。
 だからあえて目に触れるところに出しておいて、逃げられないように自分を追い込んでおく。
 それで確実。
―――でも。
 そのままの姿勢で待つこと五分。
 だんだん、決意が揺らいできた。
 やっぱり止めておこうかという気持ちが滲み出てくる。
 渡したら、迷惑かもしれない。
 どういうつもりなのかと尋ねられたら、わたしには答えることが出来ない。
 いや、本当はわかってる。
 どういうつもりなのか、なぜ彼にこれを渡すのか。


 その理由は――――、


 がちゃり、という音がして、ドアが開いた。
 物思いに耽っていたわたしは、驚きのあまり、膝の上に出していたものを背中に隠してしまう。
 跳ね回る心臓を宥めつつ、わたしはドアの方を向いた。
 そこから、彼の顔が覗いている。
 彼はわたしの姿を認めると、微かに笑みを浮かべて口を開いた。
「長門」
 顔に心臓があるんじゃないかと思うくらい、心臓の鼓動がうるさい。
 いっそ止まってしまえばいいのに、と一瞬思ったくらいだ。
 そこでわたしは自分が『それ』を隠してしまったことに気付いた。
 ああ、何をやっているんだろう。折角自分を追い詰めてまで決心して来たのに、思わず隠してしまうなんて……。
 わたしは彼の顔を見ながら、どうすればいいのか本気で悩んだ。腕を前に回して、その手に掴んでいるものを彼に差し出せばいいだけなのに、身体が全く動いてくれない。
 どうすることも出来ず、硬直しているわたしを見ている彼の顔が、一瞬申し訳無さそうに歪んだ。
 どうしたんだろう。
「すまん、長門。実は妹が急に体調を崩しちまったみたいでな。携帯の留守電にあいつからメッセージがあって……今日は家に親もいないし……今日はこのまますぐ帰ることにする。病院に連れていかねえと」
「………………」
「じゃあな、また明日」
 慌しい足音を立てて、彼は走り去ってしまった。
 あとには呆然としたわたしが残される。
「…………」
 その姿勢のまま数十分ほど固まっていた。
 我ながら緩慢な動きで、後ろに回していた腕を前に戻し、手に握っていた『それ』をじっと見詰める。
 渡せなかった。
「…………」
 勿論、渡すなら明日でもいい。
 むしろ、明日の方が『日頃の感謝を込めて』という形になって渡しやすいかもしれない。
 この状況は、歓迎するべき……?
「…………」
 わたしは鞄の中に『それ』を仕舞い直し、そして、覚悟を決めて立ち上がった。








 絶対に、今日渡したい。
 今日でなければダメなのだから。
 この『特別な日』じゃないと。








 わたしは彼の家の前までやって来た。
 以前一度訪れたことがあっただけだったから、無事に着けるかどうかちょっと心配だったけど、無事に着けてよかった。
 わたしは彼の家のインターホンの前で、何度か深呼吸をする。
 冷たい二月の空気に肺が満たされ、気分が落ち着いてくる。
 片手に『それ』を入れた箱を持ち、空いた片手の指をインターホンに伸ばした。


 ピンポーン……


 インターホンの音が響き、客の来訪を告げる。
 緊張で跳ね回る心臓を宥めつつ、わたしは応答を待つ。
「…………」
 待つこと一分弱。
 おかしい。反応が無い。
 もう一度鳴らしてみる。
 やはり反応が無い。
 首を傾げて考えること数分。
「…………あ」
 そういえば先程、彼の妹が熱を出して病院に連れて行くと言っていなかったか。
 彼は自転車でわたしは徒歩だから、彼がわたしが来る前に家に戻り、妹を連れて病院に行くくらいの時間は十分あった。
 いなくて当たり前。
 緊張していた今までの自分が馬鹿みたいだった。いや、実際に馬鹿だ。
 わたしは肩を落として、大きく溜息を吐く。
 手に持っていたモノを鞄の中にしまい、わたしはもう一度嘆息する。
 どうしよう。帰ろうか。
 彼がいつ帰ってくるかもわからないし、長い間家の前で待っていたら変な人に思われるかもしれない。
 そもそも、一度文芸部部室に彼が顔を出してくれた時に、渡してしまえばよかったのだ。
 臆病ゆえに、それが出来なかったわたしが悪い。
 かじかんだ両手に息を吹きかけた。
 空は厚い雲が立ち込め、雨でも降りそうな様子だった。
 帰ろう。


 …………。








 煌々と光る、車のテールランプが家の前で止まった。
 黄色いタクシーから、彼と、見知らぬ中年の女性―――恐らく彼の母だと思われる―――と、その女性に支えられた彼の妹が出てくる。
 彼は妹を気遣いつつ、こちらを向いて、目を見開いた。
「長門っ?!」
 わたしが家の前に立っているなんて、想像の範囲外だったのだろう。
 慌てた様子で駆け寄ってきた。
「ど、どうしたんだ、お前! ……あ、先に家の中に入っててくれ」
 不思議そうな顔をしてわたしと彼を見ていた女性と、妹に対して彼はそう言った。
 女性はその言葉に従い、彼の妹を連れて家の中に入っていく。
 通りがけに、会釈されたので、わたしも小さく会釈を返しておいた。
 女性と彼の妹が家の中に入ったのを確認してから、彼は改めてわたしの方を向いた。
「長門。本当にどうしたんだ? っていうか、まさかずっとここで待ってたんじゃないだろうな?」
 現在の時刻は夜六時―――あれから、三時間ばかりが経過していた。
 その間中、わたしはここでずっと立って、彼の帰りを待っていたのだ。
 自分でも、一度帰ってから来たほうがいいとは思っていた。
 けど、家に帰ってしまえば、いや、他の場所に行ってしまえば、結局渡せないまま終わると思ったのだ。
 彼の掌が、わたしの頬に軽く当てられた。彼の掌は、さっきまで暖房が効いた車内にいたので、とても暖かかった。
「うわっ、冷え切ってるじゃないか」
 慌てた様子で、彼は言う。
 不謹慎だけど――彼の慌てる様子が少し可笑しい。
 その時、彼はびっくりしたような顔でわたしを見ていた。
 あとから知ったことだけど、その時わたしは目に見える形で『微笑って』いたのだ。
 滅多に出さない微笑を見て、彼は驚いていたのだ。
「長門?」
 再度彼に呼びかけられて、わたしはここに来た目的を思い出した。
「…………」
 黙ったまま、鞄の中から『それ』を取り出す。
 そして、それを彼に向かって差し出した。
「……これ」
 頬が熱いのは、彼が触れたから。
 もちろん、それ以外の理由もある。
 その理由は、緊張。
「え……長門、これって……」
 彼が困惑気味に言うが、『それ』が何であるかなんて、言わなくても本当はわかっているはずだ。
 二月十四日に、女の子が男の子にあげるものなんて、分かり切っている。




 バレンタインデーの、チョコレート。




「貰って……いいのか?」
 彼は相変わらず困惑したまま、念を押すように言う。
 いいもなにもない。
 あなたに貰って欲しいのだから。
 とはいえ、さすがにそこまで口に出していうことは出来なかった。
 すでに顔は火傷しそうなほど熱く、過度の緊張に眩暈さえした。
 端から見れば、きっとかなりみっともない顔になっているのだろう。
 出来るだけ大きな動作で頷いたつもりだったけど、きっと実際には僅かにしか動いていない。
 けど、彼はやっぱりわかってくれた。
 照れくさそうに、そして、嬉しそうに。
「ありがとな、長門。大事に食べるよ」
 チョコレートの入った箱を、受け取ってくれた。
 僅かに歪んでいるラッピングの箱を見て、彼はふと気付いたように口を開く。
「ひょっとして、手作りか?」
「…………」
 わたしは黙って頷いた。
 普段料理をしないので必要な器具を買うところから始めたとか、慣れていなかったので大量の失敗作が出来たとかそういうことは言わない。
 裏事情は出来る限り言わないのが最善。
 参考にした本にそう書いてあった。
 幸い彼はそれ以上言及することはなく、もう一度お礼を言ってくれた。
 その言葉だけで、わたしは渡せてよかったと思える。
「…………なあ、長門」
 不意に彼が真剣な顔付きになった。
「……?」
 黙ったまま彼の次の言葉を待つ。
 彼は何度か言い淀んで、それから、
「これ、は……『そういう意味』だと受け取っていいのか?」
 どういう意味か――――さすがのわたしも、その意味がわからないわけはない。
「わたしは……」
 緊張のあまり喉が渇く。
 声が出にくいのは、寒さに硬直してしまっているからではないだろう。
 それでも、勇気を出して言葉にした。
「わたしにとってあなたは……」




――特別な存在。




「だから、今日と言うこの日に、それをあなたに渡したかった」
 恥ずかしさのあまり彼の顔を直視できなくて、彼の胸の辺りを見ながら言った。
 全てを言い終えてから上目遣いに彼の顔を見ると、彼は目を見開いてわたしのことを見つめていた。
 思わず視線を逸らす。もう頬は火傷どころか燃えていると錯覚するほどの熱さだ。
「そう、か……」
 彼は静かに呟き、そして続けて何か言おうとした。
 その時―――、
「……っ」
 小さく、くしゃみが出てしまった。
 よりによってのタイミング。最悪にもほどがある。
 熱い頬が更に熱くなった。
 寒空の下、ずっと立っていたのだから身体も冷えている。ある意味当然の結果。
 でも、よりによってこのタイミングで出なくてもいいのに。
 恐る恐る彼の顔を窺うと、彼は苦笑いをその顔に浮かべていた。
「寒いのか? ちょっと待っててくれ」
 彼は自分が来ていたジャンパーのような上着を脱いで、わたしの肩にかけてくれた。
 それには彼の体温が残っていて、冷えたわたしの身体を温めてくれる。
 彼は早足で家の中に入り、暫くわたしはそこに立ち尽くしていた。
 三十秒も立たないうちに、再び彼が出て来た時、彼は別の上着を着ていて、何か鍵のような物を手に持っていた。
「家まで送るよ。もう遅いし、日も大分長くなってきたけどやっぱり暗いしな」
 彼は自転車の鍵を外し、それをわたしの前まで引っ張ってきた。
「あ、ちゃんとその上着は着たほうがいいぞ。あと鞄は籠に入れるから渡してくれ」
 慌てて彼の指示に従う。
 支度を整えると、彼はわたしに向かって言った。
「じゃあ、後ろに乗ってくれ。危ないから、しっかり掴まっててくれよ」
 どきどきしながらわたしは頷き、後部座席に横を向いて座った。そして、彼の腰に手を回してしっかりと掴まる。
「じゃあいいか? いくぞ……」
 彼の声が聴こえるのと同時に、自転車が動き出した。
 初めて乗る自転車の後部座席は思ったより不安定に揺れて、思わず彼により強くしがみつく。
「やっぱ長門は軽いな。助かる」
 微かに笑いを含んだ彼の声が、想像以上に近くから聴こえて、どきりとした。
 何だか今日は心臓に負担がかかってばかりの日だ。
「…………」
「…………」
 暫くの間、二人とも無言のまま進む。
 結局、彼からの返答は聞けていない。
 こちらから訊こうかとも思ったけど、やっぱりそれは恥ずかしい。
 気持ちは伝わったはずだし、焦ることもないだろう。
 それに、いまはこの思いがけない幸せをじっくり味わっていたい。


 わたしは彼の広い背中に頬を当て、彼をすぐ近くに感じながら目を閉じた。








 これは、特別な日の話。










『特別』終
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