ある日、俺の席の後ろにいる委員長(あと少しでその役職からは一時外れることになるだろう)朝倉涼子がまるでハルヒのようにシャープペンの先で俺の背中を突いてきた。
地味に痛い。
「……何すんだよ」
用があるなら普通に呼べ。
少し怒って振り返ると、何故か朝倉は笑っていた。
怒っているのに笑うとはどういうわけだ。
「いいじゃない。安い代償でしょう」
何の代償なんだよ。
今日はまだお前に何も貰ってないし、借りもなかったと思うんだが。
俺が憮然としていると、朝倉は懐からなにやら細い封筒のようなモノを取り出した。
「これなーんだ」
「封筒」
「ギャグみたいな応答はいらないわ」
俺の渾身の返しを朝倉はあっさり無に帰し、それから自分で効果音を口にしながらその封筒を俺に向かって突き出してきた。
「じゃじゃーん! なんと、某有名な水族館の無料入場券なのよ! 新聞の抽選で当たってねー」
だからどうした。
俺が素直にそう返すと、朝倉はいよいよ呆れた顔をした。
「相変わらず鈍いわね……」
「お前が回りくどすぎるだけだろ」
そう言って、朝倉の手から封筒を取り上げた。
「あ、ちょっと!」
朝倉は抗議して封筒を取り返そうとするが、俺は軽くかわして渡さない。
「入場券は、二枚あるんだろ?」
俺がそう言うと朝倉はちょっと驚いた顔をした。
それから、にやっと笑う。
「ええ、そうよ。なんだ、わかってるんじゃない」
「お前がこういうのを渡してくるとき、その狙いは一つだろう」
そうならばそうとさっさと言えばいいのに。
全く、最近、こいつは無駄にこういった回りくどいやり方をしてくる。
俺は朝倉の狙いをさっさと指摘した。
「有希を誘って、ここに行けばいいんだろ?」
封筒の中身を光に透かして見ながら、丁度いいな、と俺は思った。
丁度、有希との初デートの場所を考えていたところだったのだから。
俺と有希……長門有希が恋人の関係になったのは、数週間前のことだ。
とはいえ、なったからと言って特に何か特別なことをしたということはなく、変わったことと言えば、俺の呼び方が『長門』から『有希』に変わり、有希が俺を呼ぶ時の「あなた」という言葉に、より一層の気持ちが篭っているように感じられるようになったということくらいだ。
あと、俺に恋人が出来たと知った谷口が「呪ってやる〜」と一日に一度口にするようになったり、朝倉や国木田、ハルヒや古泉にからかわれることが多くなったような気がするが……まあ、それらは割愛しても構わないレベルの話だ。(特に前者)
劇的な変化を望んでいたわけではないし、有希とはこう言う穏やかな付き合いが一番いいのかもしれないが、やっぱり恋人関係になった以上は、ある程度それなりのことはしたいと考えていた。
もちろん俺も健全な青少年。『あること』を妄想しないこともなかったが、するとしてもそれはずっと先になるだろう。
無駄に劇的要素は必要ない。段階は大事だ。
だから、とりあえずまずは最初の段階として、世に言うデート、それも曖昧な関係としてではなく、完全に恋人としてのデートをしたい、と俺はここ数週間考えていた。
しかし、問題が一つ。
どこに行けばいいのかが、こういうことに対する経験が皆無の俺には、さっぱりわからなかったのだ。
デートの定番といえば遊園地だが、以前SOS団の活動として人手の多いイベントに行ったとき、元々身体が強い方ではない有希は気分を悪くしてしまっていた。(朝比奈さんも)
初めてのデートの思い出がそれでは可哀相だと思う。あいつはまた俺に迷惑をかけたと思うだろうしな。
やっぱり、思い出は綺麗に、美しくしておきたい。
人ごみに慣れてきたら行くのもいいかもしれないが、遊園地はまだ時期尚早だろう。
だけどそうなると、何処に行けばいいのかわからなくなる。
だから、俺は困っていたのだ。
そこに朝倉の持ってきた入場券は、その困難を見事に打ち破ってくれた。
水族館。
静かで、綺麗で、平日に行けばそれほど人も多くなく、なにより自分達のペースで回れる。
問題は有希が興味を持つかということだが……恐らく興味を持ってくれる筈だ。
同じような場所で動物園、という手もあったが、動物園と水族館を比べたら、恋人同士のデートとしては水族館の方が相応しいだろう。
何より雰囲気がいいし。
朝倉が渡してくれた入場券の水族館は、デートスポットとしても有名な場所だから、そのように整えられているはず。
これはもう行くしかないだろう。
朝倉に入場券を渡された放課後。
俺は少し駆け足で文芸部部室に向かった。
一刻も早く、この券を見せてやりたかった。
どんな表情をするだろうか。あいつの表情は滅多に動かなくてわかりずらいが、俺はその僅かな変化を見逃さない自信がある。前からそれなりだったが、今ではその精度に絶対の自信を持っていると言っても過言ではない。
終わってすぐに来たから、ひょっとしたらまだ来ていないかもと思ったが、それは杞憂だった。
ドアを開けたその先、いつもの定位置で本を読む有希がいた。
ほんの僅か、有希は視線を本から俺に向け、すぐに本に視線を戻してしまった。
あまり有希のことを知らない人間なら「避けられた」と思うところだが、その行動が恥ずかしがっている結果と分かっている俺は、逆にその仕草を可愛らしく思う。
「よう、有希。今日は何の本を読んでいるんだ?」
俺がそう声をかけると、有希は呼んでいた文庫本を持ち上げ、表紙と背表紙を同時に見せるように掲げて見せてくれた。
ライトノベル風の表紙。珍しい系統の本を読んでいるな、と思ったが、よく見ると背表紙には『人間失格』とあった。
国語の成績もよくない俺だけど、さすがにその題名の本くらいは知っている。
「太宰治? でも、その表紙……」
「……最近、カバーだけ変えて出版された」
成る程。
現代の風潮に乗って、というわけか。
しかし、読書家の有希にしては、そんな有名な本を今頃読んでいるなんて、妙だな。
「『人間失格』、読んでなかったのか?」
読んでない俺が言うのもなんだけど。
有希は、ふるふると首を横に振った。
「……以前、一度読んでは、いた。けど、もう一度読んでいる」
ふーん、何か読みたくなるようなきっかけでもあったんだろうか……でも、確か人間失格ってすげえ欝になるような暗い話だったような気がするんだが。
まあいい。それより、今日は重要な話がある。
しかし、いざ切り出すとなるとなんだか照れくさいな。
「あー…………有希。ちょっといいか?」
俺がそう口火を切ると、有希は文庫に栞を挟んで閉じ、俺の方を見詰めてきた。
若干、上目遣いな辺りが、有希の性格を如実に表している気がする。それにしても有希よ、その視線は反則的なまでに可愛いから止めてくれ……理性が飛びそうだ。
俺は制服のポケットに入れておいた封筒を取り出し、有希に示してみせる。
「実はな、ある水族館のチケットが手に入ったんだ。それで……一緒に行かないか、と思って」
そう口にした途端、有希の動きが止まった。
少し丸く見開かれた眼に、驚きの感情が浮かんでいるのがわかる。
俺は有希の反応を待った。
やがて、有希はゆっくりと俯き、ぼそぼそとした感じで呟いた。
「……いい、けど」
けど?
何か問題があるのか?
「……………………」
有希は黙ってしまう。
俺は有希が躊躇うのは何故か考えてみた。
『私でいいの?』ということだろうか。
彼氏彼女の関係なのだし、それはないか。お前以外の他に誰を誘えばいいのか、ということになるしな。
じゃあ『何か用事がある』ということだろうか。
基本的に有希は何も用事がない筈だ。アルバイトも何もしていないのだから、これもない。
……うーん。『水族館は嫌い』か? 実は海洋生物が苦手、とか……。
去年、海に行った時には特にそう言う生物が嫌いな様子はなかった。これも違うと思う。
いよいよわからなくなった。
情けないが、有希に直接訊くことにする。
「有希、何か問題があるなら、言ってくれ。もしも水族館に行くのが嫌なら、別の場所を探すし……」
そう言うと、慌てた様子で有希は首を横に振った。
「違う。そう言うことではなくて……」
有希は左右に慌しく視線を流す。
何か恥ずかしがっているようにも見えた。
「……きっ」
「き?」
オウム返しに問い返すと、ますます顔を俯けてしまった。
ほとんど消えるような呟きが、聴こえてくる。
「着ていく、服が……」
その言葉で、全ての疑問が氷解した。
なるほど。デートに来ていく服がないから、躊躇っていたのか。
わかってみれば、実に何と言うことはない悩みだった。
だから俺は軽く笑い飛ばしてやる。
「なんだそんなことか。大丈夫、何も服とデートするわけじゃないんだし」
俺は、続ける。
「有希なら、どんな服だろうが制服だろうが、俺は気にしないぞ」
思わずするりと口にしてしまった言葉だったが、その言葉を聴いた有希は耳の先まで真っ赤にしてしまった。
遅れて、俺も自分がどれほど恥ずかしい台詞を口にしたかに気付き、大慌てで口を塞ぐ。
お互いの間に何とも形容しがたい空気が流れる。
居心地が悪い訳ではないが、なんともむず痒い感じの空気だ。
その空気を吹き飛ばすかのように、勢い良く部室の扉が開かれた。
思わず俺も有希もそちらを振り返る。
そこに、仁王立ちになった朝倉涼子と、その背後に喜緑江美里さんが立っていた。
呆気に取られる俺と有希の前で、朝倉はにこやかに宣言する。
「大丈夫! 話は聴かせて貰ったわ。安心して長門さん! わたしと喜緑さんに任せなさい! 可愛く美しく、彼の理性が飛ぶくらいに可憐に仕上げてみせるから!」
いや、それはまずいだろ。俺を犯罪者にしたいのか。
それにしても、朝倉、お前キャラ変わってないか? 心なし、ハルヒに近くなっているような……気のせいか?
「私も微力ながら、お手伝いさせていただきます、長門さん」
朗らかに微笑みながら言う喜緑さん。しかしこの人の笑顔って……なんか、底が知れない感じで怖いな。
二人の乱入の衝撃から立ち直った俺は、同じように衝撃を受けている有希を振り向いた。
案の定、脳の許容量を超えてしまったのか、有希は何の反応も見せず、ただ固まっている。
俺はそんな有希が心配になって、近付いて肩を軽く叩いてみた。
有希の目の焦点が戻り、近付いていた俺を見上げてまた固まる。
有希にしてみれば、いきなり瞬間移動でも使ったように思えたのだろう。
俺は安心させてやるために、笑顔を浮かべながら有希に声をかけた。
「有希。あいつらもああ言ってくれてることだし……行くってことでいいか? いいなら、来週の平日に行こう。あの日なら、うちは休みだけど世間的には平日だから水族館も空いている筈だ」
その提案に、有希は小さく頷いた。
「当日、どんな服を着てくるのか、楽しみにしてるな」
そう言うと、真っ赤になって俯いてしまった。
本当に、どんな服を着てくるんだろう。
楽しみのあまり、暫く他のことが手につかなさそうだ。
有希と水族館に行くことになってから、時間は必要以上に遅く進んでいった。
ようやくその日がやって来た時には、何週間も待っていたような気がしたくらいだ。
俺は待ち合わせ場所である駅前――待ち合わせといえばここと例の公園くらいしか思い浮かばないのはどうなのだろう――に、約束の三十分前に到着した。
こういうとき『男は女を待たせてはいけない』、とは耳年増な谷口の言葉だ。
一度も待たされた経験も待たせた経験もないであろう谷口に、そんなことを言われても説得力が欠片もなかったが。
だが、『待たせてはいけない』というのは当然のことだったので、俺は約束の時間よりもなるべく早く来たわけだ。
しかし約束の時間まではまだ三十分近くもあるというのに、有希はすでにやって来ていた。
緊張しているようで少し俯きがちに佇んでいる。
俺は声をかけようと近づきかけ、思わず少し離れた位置で立ち止まった。
理由は簡単だ。
有希は今日、いつもの標準装備である北高の制服を着ていなかった。
長門はずっと前、SOS団の不思議探索の時に購入していた白いワンピースを着ていたのだ。
白い生地が陽光を反射して、まるで有希の背後に後光が差しているかのような輝きを見せている。
ワンピースをベースに首周りや腰回りの小物、提げている小さな鞄がアクセントとなって、可憐さを一層際立たせていた。
正直、俺は本当に有希なのか、自分の目を疑った。
普段が可愛くないと思っていたわけではないし、むしろ十分に可愛いとは思っていたが――まさか、近寄りがたいほどの可愛さを放つようになるとは思っていなかった。
事実、立っている有希を道行く人(主に男)は必ず見ていくが、声をかけようとする奴は一人もいない。
俺も同じ立場なら、声はかけられないだろう。
近寄りがたいほどの可憐さ――それを持つくらい有希は可憐に仕上げられていた。
着飾るのを手伝うと言っていた朝倉と喜緑さんの二人は、色んな意味で恐ろしいな……。
「うふふ。見惚れちゃって……大成功ね」
「何時間もかけた甲斐があったというものです」
「うお!?」
気が付いたら、その朝倉涼子と喜緑さんが俺の真後ろに立っていた。
一体全体いつのまに。
「あなたが立ち止った時からずっといたわよ? ぼーっとした顔で長門さんを眺めていたキョンくんの後ろにね」
「全く気付きませんでしたね」
くすくす、とおかしそうに笑う朝倉と喜緑さん。
見られてたのか。
うわ、なんつーか、恥ずかしいな……。
「可愛く仕上がっているでしょう? 理性が飛びそうなほどでしょ」
確かに想像以上に可愛く仕上がっていることは否定しないが……理性を飛ばすわけないだろうが。
いや、理性を飛ばすわけにはいかないだろうが。
「本当は水族館という場所に合わせて青系の服にしたかったんだけど……長門さんがあの服のことを思い出してね」
「長門さんは『これがいい』と控えめながらも譲らなかったので、私たちはアクセサリーの選別に精を出すことになりました」
(何であの服にそこまで拘るんだ?)
尋ねかけたが、何となく訊くのはやめておいた。
嫌な予感が背筋を撫でているし……。
わざとらしく咳払いをして話を変える。
「ところで……まさか、ついてくる気じゃないだろうな?」
訊くと、二人は盛大に首を横に振った。
「まさか! 一応あなたが来るまで見張ってたのよ」
「変な人が声をかけないとも限りませんし」
喜緑さん、言葉の裏になにやら怖い響きがあるんですが……何かあったんですか?
「ま、あなたが割合すぐに来てくれてよかったわ。あたしたちはここで退散するから、あとはがんばってね」
「……ああ、わかった」
俺の答えを聞くや否や、朝倉と喜緑さんは足早に去って行った。
今日は本当に出歯亀をする気はないらしい。
一安心、と言うべきか。
――さて。
俺は一つ息を吐き、気持ちを切り替えてから有希のところへ向かう。
数メートルの距離まで近づいたら、向こうもこっちに気づいた。
顔をあげ、上目づかいでこちらを見てくる。
……そんな迷子の子犬が飼い主を見つけた時のように、輝く嬉しそうな眼を向けないでくれ。
すげえ破壊力があるから。
「……えーと。すまん、待たせたか?」
俺は捻りの全くない常套句から入った。
当たり前だが、ここで「待った」と応えるような性格を有希はしていない。
ふるふると首を横に振る。
なんつーか……いつも同じような仕草は見ていて、その度に「可愛い」と思っていたのは紛れもない事実なわけだが。
しかし、それにしても今日は威力がありすぎる。
俺の理性にも限界って奴はあるんだぞ、有希。
もちろん口にはしないが。
「そ、それじゃあ、行くか?」
微かに頷く有希。
俺と有希は並んでゆっくりと歩き出した。
それほど時間はかからず、水族館についた。
どういう場所かは事前に調べて知っていたつもりだったが、かなりの人数のカップルがいたのには呆れ半分、驚き半分と言ったところだ。
あ、俺たちもその中の一組か。
なんとなく気恥ずかしくなって有希の様子を伺うと、同じようなことを考えていたのか、有希は俯いた状態からちょっと顔をあげてこっちを見ていた。
目が合うとそのまま数秒間固まって、それからますます深く顔を俯けてしまう。
これはこれで有希らしいし、可愛いんだが……折角のデートなんだから俯いてばかりでもな……。
かといってここで何か言っても、何かしても逆効果か。
さっさと水族館に入るべきだろう。
少なくとも水族館に入れば魚を見るために顔を上げざるを得ないはず。
そう結論付けた俺は有希を促して受け付けに進んだ。
受け付けに座っていたのは中年の女性だったのだが、初々しいカップルそのものである俺たちの姿を見るとやけに楽しそうに笑った。
チケットに判を押して貰って、それを返されたとき、その人が「頑張りなさいよ」と俺に囁いてきたが……何を頑張れと?
水族館の中は、カップルは多かったが平日だけあって比較的空いていた。
静かな空間を俺と有希は並んで歩く。
有希はもう顔を俯けていない。
珍しい魚を興味深げにじっと眺めている。
恋人と来ていて魚の方に全集中力を傾けるとは……俺としては苦笑するしかない。
これも、有希らしくていいんだけどな?
泳ぐ魚に釣られて、ゆらゆらと移動する有希。――おいおい危なっかしいな。
柱にぶつかるぞ。視線を魚の方に固定したまま歩いているからだ。
仕方ない。
俺は有希の手を取った。
「前を見ろ、危ないぞ」
有希は手を掴まれて、いま自分が何をしに来ているのか思い出したようだ。
いつもの二割増しで顔が赤く染まる。
子供のように魚に夢中になっていたことを恥ずかしく思ったのかもしれないし、単純に手を繋がれたことが恥ずかしいのかもしれない。
しかし、俺はといえば、ようやく手を握ることが出来たと内心でガッツポーズを取っていた。
いつ手を繋ごうか、ずっとタイミングを伺っていたのだ。
というのも、俺と有希はいつも「人混みで離れないように」だとか色々理由をつけてからじゃないと手を握ったことがない。
だからこの水族館のように人がまばらで、はぐれる心配がないと手を繋ぐ口実が見当たらないのだ。
他のカップルはめちゃくちゃ普通に手を繋いでいたが……。
とにかく、ようやく恋人らしい状態になったことを喜ぶ。
さっきまではなんつーか、保護者みたいな感じだったからな。いまも下手をすればそう見えなくもないが、気合いが入った有希の格好がそれを軽減してくれていた。
「次は深海魚のコーナーか……」
深海魚というとチョウチンアンコウみたいなグロい魚を思い浮かべるが……大丈夫だろうか。
少し心配になったが、結局それは全くの杞憂だった。
有希はほとんど食い入るような視線で深海魚を眺めていたからだ。
深海魚の中には綺麗な色彩をしたものもいたが、グロいのもやはりいた。
有希はそのどちらも熱心に眺めている。
気になって訊いてみた。
「面白いか?」
有希は、俺には名前もわからない――説明書きに書いてあったけど全部ややこしくて言いにくい――奇妙な形をした魚を眺めながら答えてくれた。
「興味深い」
「そっか」
楽しそうな有希を見ているだけでも、十分楽しい。
深海魚のコーナーを抜けたところで有希に提案する。
「ちょっと休憩するか? ちょうどカフェがあるし」
休むのにちょうどいいタイミングで設置されているな。
喉も乾いてきていたし、有希も同感だったのだろう。
小さく頷いて来た。
その動作を見て、有希が心から楽しんでいることに気付いた。
表情はあまり変わらないが、動作が少し大きくなっている。
ここまで喜んでもらえると連れてきた甲斐があるというものだ。
カフェでお茶を飲みながら休んだあと、順路に戻った俺たちは自然と手を繋いでいた。
うん、気恥ずかしいくらいに恋人らしい。
だがまあ、こうでなくては来た意味がないか。
出来れば腕を組んだりもしてみたいが、さすがにまだ恥ずかしいし。
いまはまだこれで十分。
その時、ある看板が目に飛び込んできた。
そこには『イルカショー:屋外ステージにて』という文字が、可愛いイルカのイラストと一緒に踊っていた。
「イルカショーか。面白そうだな」
「…………」
こくこくと頷く有希。
本当に見てみたいらしい。
有希がこんなに大きく頷くところなんて、ほとんど見たことがないからだ。
「まだちょっとショーの開演時間までは早いけど……行っとくか。いい場所が取れるしさ」
早速、俺たちは屋外ステージに向かった。
屋外ステージはすり鉢状の観客席の前に、巨大な水槽が置かれているような、非常に典型的な形をしていた。水槽の左右には調教師などが立つためのステージがある。
まだ開演時間までには時間があるからか、観客席にはところどころに人がいるだけでほとんどいない。
ステージではショーの準備をしているらしい、水族館のロゴが入った服を着た人が動き回っている。
「真ん中あたりで座って待ってようか」
観客席に入るための通路は左右と真後ろに、三つある。
そのうち、後ろ側の通路から入ることにする。
しかし――なぜかその通路の入口付近に、水族館のロゴ入りの服を着た男の人が立っていた。
妙に硬い表情で正面のステージを見つめている。
「……?」
有希が不思議そうな顔でその人を見ていた。
俺もなんとなく気になったので、その人に声をかけてみることにする。
「あの……」
「はぁ……。……っ!?」
その人は盛大にため息を吐き、それから初めて俺たちに気づいたのか、目を見開いて驚いた。
「あ、はい、なんでしょうか。お、お客様」
物凄く動揺している。
「どうかしたんですか?」
「ああ、いえ、なんでも……」
目が泳いでいるその人を、俺の隣で有希が無表情に見ていた。
俺からみれば不思議そうな感情が瞳に覗いているのがわかるが、見つめられたその人にとっては無表情のプレッシャーになったのだろう。
観念したように言う。
「実は……私はイルカショーの司会をやることになっているのですが……実は今日が初めての公演でして……少々、緊張してしまって」
「ああ、なるほど」
「す、すいません。お客様にする話ではありませんでしたね。きちんと練習は積んでいますので、どうぞ楽しんでいってください」
「いえ、いいですよ。頑張ってください」
「ありがとうございます」
その新人さんはぺこりと頭を下げ、ステージの方に歩いて行った。
どうにも足取りが堅い。
真面目そうで好感の持てる人だった。
自分たちの思い出のためにも成功して欲しいが、それだけではなく、あの人のためにも成功すればいいと思う。
「ショー、成功するといいな」
思わずそう呟く。
有希も同意するかのように、こくりと頷いた。
待つこと数十分、いよいよショーが始まった。
例の新人さんは多少笑顔が引き攣っているような気もしたが、何とか無難にショーを進行させている。
有希も楽しそうに(表面上は無表情だが)イルカが飛んだり跳ねたり鳴いたりするところをじっと見つめていた。
ちょっと心配してたけど……大丈夫そうだな。
ぐだぐだなショーを見せられたらどうしようかと思っていたが、何事もなく無難に終わりそうだ。
『――さて、ここでお客様にステージの上にあがっていただき、イルカと触れ合ってもらいましょう!』
あー、大抵の水族館のイルカショーでやる演出だなあ。
ま、こういうのは大抵子供が選ばれるものだから俺たちには関係ないが。
『それでは――中央付近にいらっしゃる初々しいカップルさん。あがっていただけますか?』
関係……あった!?
ちょっと待て、何でだ。
さっきちょっと話したからか? あ、平日だから子供が少ないからか……?
いや、それにしたって……いることはいるのに。
物凄く残念そうな顔してるぞ!?
動揺する俺の横で、有希は思考が停止しているのか、完全に固まってしまっている。
釈然としないけど、このまま固まってたらすげえムードが悪くなるよな……。
仕方なく俺は立ち上がった。
まだ固まっている有希の手を引いて立たせ、ステージに向かう。
なぜか拍手が起こった。
微笑ましいものを見たような笑いがそこかしこであがっている。
多人数の注目を浴びた有希は真っ赤になって俯いてしまっている。
かくいう俺もかなり恥ずかしいわけだが……。
ステージの脇に行くと、例の新人さんが笑顔ながら申し訳そうな顔をしていた。
マイクを外してこっそり囁いてくる。
「すいません。子供は難しいから、初めての時は大人を選べ、と先輩に言われていて……」
なるほど。
子供って奴は、子供によっては何をするかわからないし、万が一の時におおごとになるしな。
少なくとも係員の言うことをきちんと聞いてくれる方がいいってわけか。
それで俺たちに白羽の矢が立った、と。
……まあ、思い出作りって点ではむしろいいかもしれない。
こんなことはもうないだろうし……有希は絶対初めてだろう。
そう思うと腹が据わった。
「有希、足元に気をつけろよ」
万が一、何か起こってもすぐフォローできるように気を張り詰めておこう。
有希は恐る恐る壇上に上がる。
俺は床が濡れて滑りやすくなっているのを見て、警戒を強めた。
『それでは、イルカたちに挨拶してもらいましょう!』
観客席にそう呼びかけてから、新人さんは俺たちの方に囁く。
「この位置に立ってください。大丈夫、水しぶきはかからないはずです。……たぶん」
有希が不安になるようなことを言うなっ。
思わずそう言いたくなったが、黙っておく。
新人さんが笛を吹きながらイルカに合図を送った。
深く潜ったイルカが、勢いよく水面から飛び出し、また水の中にもぐっていく。
かなり水しぶきが立ったが、ちゃんと計算されているのだろう。俺たちの立っている位置には全くかからなかった。ちょっと安心する。
間近でイルカの大ジャンプを見た有希は、目を見開いていた。
迫力に圧倒されている。
『それでは、イルカと握手です!』
新人さんがそう言って合図を送ると、複数いるイルカのうち、一匹がすぐ傍の水際に寄ってきた。
「この縄を持って、近くに寄ってください。落ちないように気を付けてくださいね。次に私が合図をしたらイルカが体の半分を水の上に出してくるので、その時にヒレに触ってあげてください」
命綱……というほどおおげさではないが、転落防止用の縄を手渡された俺と有希は水際に寄った。
すべすべのイルカ肌が目の前に浮かんでいる。
これだけ近くでイルカを見るのは俺も久しぶりだ。
有希はおっかなびっくり身を乗り出してイルカを覗き込んでいた。
――ハプニングは、この後起きた。
新人さんが笛を使って、イルカに合図を送る。
その時、合図を間違えたのか、それともイルカが間違えたのか。
とにかく、イルカは急に頭を持ち上げ、甲高い声で大きく鳴いたのだ。
不意打ちだったし、かなり近距離だったので俺でさえかなりびびった。
有希はあまりに驚いたのか慌てて後ずさり、足を滑らせて体勢を崩してしまった。
俺も驚いて固まっていたから、支えられない。
有希は盛大に尻もちを突く。
「……有希っ!」
慌てて俺が呼びかけるのと、有希が転んだのを見た観客席からどっと笑いが起こるのはほぼ同時だった。
こんな壇上でそんなハプニングを披露してしまった有希は、真っ赤になって顔を俯けてしまった。
最悪だ。ここまで完璧に行ってたのに。こんな恥をかいて――。
「す、すいません! 合図を間違えてしまって……」
青い顔になった新人さんが弁解してくる。
俺は思わず頭に血が昇るのを抑えられなかった。
せっかくいい思い出になると思ったのに、よくも有希にこんな恥をかかせてくれたな。
「この――」
感情のままに怒鳴ろうとして
袖に小さな力を感じた。
出しかけていた言葉を飲み込んで視線を転じると、尻もちをついたままの有希が顔をあげて俺の顔をじっと見ている。
まだ顔が少し赤いが、その瞳はまっすぐ俺を見詰めて何かを伝えようとしていた。
慌てて俺は有希に手を貸す。
「だ、大丈夫か? 有希」
「……へいき」
差し出した俺の手を取って有希が立ち上がる。
その瞳が新人さんの方を見た。
「……もういちど」
呟くような声だったからだろう。
「え?」
呆けたような声をあげる新人さんに、俺は語調を若干荒くして代弁した。
「もう一度しろって言ってるんだよっ」
ようやく意味を飲み込めたのか、慌てて新人さんが合図を出す。
今度は、ちゃんとイルカは半分ほど体を水面上に持ち上げる。
そこに、有希が素早く手を伸ばし、イルカのヒレに触れた。
観客席から拍手が起こる。
『は、はい! イルカとの握手でしたー! ……では、イルカにご褒美をあげてくれますか? ちょっと気持ち悪いかもしれませんが……』
餌は生の魚だったが、有希は平然とそれを掴んだ。
「大丈夫」
小さく頷く有希を、俺は少し複雑な気持ちで見ていた。
それから。
何とか無事にショーは終わり、俺と有希は舞台の脇で新人さんに深く頭をさげられていた。
「本当に申し訳ありませんでした!!」
「……いい。だいじょうぶ」
幸い、有希が転んだ位置の床はそれほど濡れていなかったので、有希のお気に入りらしいワンピースもほんの少し湿った程度で済んだ。
ショーが終わるころにはもう乾いていたくらいだ。
「……有希がいいって言ってるから、いいですよ」
本音は怒鳴りつけてやりたかったが有希が許している以上、それは自分勝手な行動になってしまう。
その後も謝り続ける新人さんと別れて、俺と有希は再び水族館の中の順路に戻った。
「…………」
「…………」
暫く無言のまま展示を見ていたが、沈黙に耐えきれなくなって有希に問いかけた。
「な、なあ、有希。本当によかったのか? 向こうのミスだったんだし、ちょっとくらい怒っても良かったんだぞ?」
「…………」
有希は小さく横に首を振った。
それから、微かな声で呟く。
「成功してほしかった、から」
呟かれた有希の言葉に俺は目を見開く。
ショーの前に俺が呟いた言葉。『成功するといいな』というその言葉を、有希はちゃんと覚えていたのか。
だから成功させてやりたかった?
そして。
あの時、俺が怒鳴っていたらどうなっていただろう?
きっとショーの雰囲気は最悪になっていた。
『大失敗だった』と、見ていた観客にも、あの新人さんの記憶にも、俺たちの記憶にも残るだろう。
それは俺たちも嫌だ。
だからあの時、有希は俺を止めたのだ。
そしてショーを何事もなかったように進めることで、最悪の事態を回避した。
笑われたことなどなんでもないという顔をして。
たくさんの人に笑われて相当恥ずかしかっただろうに、その気持ちは押し込めて俺を止めて。
それなのに俺は感情のまま怒鳴ろうとして――。
俺はなんて馬鹿だったのだろう。
感情のまま、怒鳴ろうとしてしまったことだけじゃない。
ずっと、俺は有希をフォローする側だと思っていた。
実際、これまで俺は有希をフォローしていた。
プールに行った時も、バイトに行った時も。だから疑いようもなく、有希は俺がフォローしなければならないと思っていた。子供に世話を焼く大人のような気持で。
でも違った。
今回、俺は有希にフォローされたのだ。
情けないにも程がある。
別に女子に――有希に――フォローされたことが情けないんじゃない。
『俺は有希をフォローしたり、世話を焼いたりする側だ』、と何の疑いもなく思っていたことが情けない。
いつから俺はそんなに立派な人間になっていたんだ?
そんなわけがないじゃないか。
俺と有希は、親と子供のように一方通行な関係なわけがない。
本当に……情けない。
自分の無自覚な傲慢さに気づいて内心落ち込んでいると、また袖口に小さな力を感じた。
有希がじっと見つめてきている。
「…………怒ってくれようとしたことは、とても嬉しかった」
だから、ありがとう、と。
ほんの少し心配そうな眼で、有希は言った。
あーあ……。
またフォローされちゃってるよ、俺……。
続けてとは、本当に情けない。
「悪い……俺、知らない間にいい気になっていたみたいだ」
有希はふるふると首を横に振る。
「そんなことない」
そう有希は言ってくれるが、そんなことはある。
思い上がりも甚だしかった。……反省しないとな。
「ありがとう、有希」
まずは、このデートをきちんと最後までやり遂げよう。
せっかく有希にフォローしてもらったのに、俺が雰囲気を暗くしてしまったら本当に立つ瀬がない。
反省は後でいくらでも出来るのだから。
気持ちを切り替え、有希と手をつなぐ。
「次の展示は……タコなどの軟体生物……ねえ……」
「とてもユニーク」
「……確かに」
俺と有希は顔を見合わせて、小さく笑い合う。
――ゆらゆらと穏やかに周囲の水が揺れていた。
|