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長門有希の体験シリーズ
ゆらゆら揺れて、




「……あー、すまん。長門」


 茫洋とした調子で放たれた彼の謝罪が耳を打つ。わたしは耳元まで真っ赤になっているだろう顔を横に振り、謝罪には及ばないことを示したが、伝わったかどうかは怪しい。
 彼に謝罪されるのはすでに五回目だ。だんだんその周期は伸びている。
 体勢を立て直した彼は、暫くの間我慢していたようだけど、すぐにまたその瞼が閉じてしまう。
 無理もない。
 静かな空間に、窓から差し込む暖かな日差し、定期的に生じる震動からは揺り籠のような感触を覚える。
 それに、おそらく彼もまた感じているであろう疲労が加われば、眠くなるのも無理はないだろう。
 わたしと彼は……デート……の帰りだった。
 興味深く、それ以上に楽しかった水族館に別れを告げて、いまは電車に乗って帰る途中。
 それなりに込み合っている中、運よく座れたのだけど、何となく会話がなくなった。それは気まずい雰囲気ではなく、心地よい雰囲気だったのだけど……だからこそ、かもしれない。
 彼は断続的に襲いかかる睡魔と闘っていた。同じだけ疲労が溜まっていると考えれば、彼よりも体力が低いわたしの方が眠くなるのが自然なのだけど、人間の体というものは奇妙なもので、なぜかわたしは眠くならなかった。
「…………」
 そっと横目で彼の様子を窺うと、彼の首が電車の振動によって徐々に傾き、それに伴い彼の身体がわたしの方に向かって傾いてくる。並んで座っているから、元からある程度は接近しているのだけど、さらにその距離が近くなって――密着、と表現出来るほどになった。
 そうなってしまうと、どうしても恥ずかしくなってくる。自然な呼吸も出来なくなって息を詰めてしまい、ただでさえ赤くなった顔がさらに赤くなるのを感じた。
 かたん、ことん、と断続的に音が響く。
 周囲に人はいるけど、会話を交わしている人はおらず、奇妙な沈黙がその場に溢れていた。
 何人か彼と同じように船をこいでいる者もいる。
 電車が駅に着き、耳障りなブレーキ音が響いた。その音に驚いたのか、彼を含めて寝ていた人たちが同じように身体を震わせて目を開く。連動したその動きが何となく面白かった。
 でも、すぐにそのことを後悔する。さっきまでほとんど密着していた状態だった彼が、起きてしまったせいで遠くなっていたのだ。まだ眠気は襲いかかって来ているらしく、電車が次の目的地に向かって動き出すのと同時に目を閉じてしまったけど、今度は体勢がしっかり取れたのか電車の振動に晒されてもこちらに倒れてくる様子はない。ほんのわずか、数センチもないわたしと彼の間に出来た隙間が、わたしの胸に寂しさをかきたてる。
 こんなに、触れそうなほど近いのに。
 生じたほんの数センチにも満たない距離を寂しく想う。
 何とも馬鹿馬鹿しいことかもしれない。人に話せば笑われてしまうだろ。いつもわたしを見守ってくれている朝倉涼子もさすがにこんなことを話したら呆れ返ってしまうのではないだろうか。
 それでも、わたしはその距離が寂しかった。さきほどまでは息が出来なくて苦しいとさえ思っていたのに、自分勝手だと思う。
 でも……嫌ではなかったのだ。
 むしろ、嬉しかった。彼は謝ってくれたけど、元から謝られることではなかった。だってわたしは嬉しかったのだから。
「…………」
 彼は寝ている、という状況も後押ししてくれた。
 わたしは彼が体勢を立て直したことで、わずかに生じた隙間を埋めるために、今度は自分から彼にもたれかかってみようと決心する。
 不自然ではないように、ゆっくりと、そっと寄りかかれば。
 重心を僅かにずらす。ほんのわずかに生まれていた距離が埋まり、彼の服とわたしの服が触れ合う。
 そこでわたしはふと動きを止めた。瞬間的に胸に去来した想いは、迷惑に思われないかということ。
 わたしが嬉しかったからと言って、彼もまたわたしのその行動を嬉しく思ってくれるという道理はない。
 迷惑に感じられたら。彼は座って早々に船を漕いでしまうほど、疲れているのだ。その上さらに負担になるようなことをするのは……さすがに悪い。
 わたしは彼に頼り過ぎないようにしている。彼はいつだってわたしを助けてくれたけれど、いつまでもそれでは彼に負担をかけるばかりだ。
 彼に迷惑に思われたくはない。それにそうでなくても寄りかかって……重い、と思われたら。なんだかそれは凄く衝撃を覚えそうだった。
 寄りかかるのはやめよう、と。そう思うのに身体は意に反して動いてくれなかった。離れるわけでもなく、寄りかかるわけでもなく。実に中途半端な位置で動きが止まっている。
 迷惑じゃない程度なら……いいだろうか。
 たとえば、そう、頭を傾けて、彼の肩に載せるくらいなら……重みも感じない、はず。
「…………」
 緊張で喉がカラカラに乾いていた。本当にそれでいいのか、自問する。
 頭だけとはいっても、人間の頭部にもそれなりの重さはある。それを載せれば彼はその分のその重みを感じることになる。
 わたしは散々迷った。迷って、迷って、迷って。
 どうしても『彼に寄り掛かる』という魅力に抗い切れず、ゆっくりと頭を支えていた首の筋肉を僅かに緩めた。


 側頭部が、彼の肩に触れる。


 ほとんど触れるか触れないか、彼が目を覚ましそうになったらすぐに離れることが出来る位置。その位置でわたしは頭を止めた。
 髪と、彼のシャツ越しに、彼の体温が感じられる。そこからじわりと暖かい感覚が頭に広がって行った。それは緊張で張り詰めていたわたしの思考をほどよく緩和し、無性に気持ちいい感覚に溢れていく。
 ただ肩に触れているだけ、と言われるかもしれない。それでも、たったそれだけでわたしは心が幸せに溢れることを感じた。
 他の部分は触れず、頭だけ彼に触れているという奇妙な状態。
 それでも、それが非常に心地よかった。心地よ過ぎた。
 いままで眠気を欠片も感じていなかった意識が、日だまりのような暖かさに包まれて。
 わたしの意識はあっという間に安寧の睡魔に囚われて沈んだ。








 その恋人らしき二人組の光景は、偶然その車両に乗り込んだ者の笑みを誘った。
 疲れているのか、どちらも眠りについている。
 どちらも非常に穏やかな寝顔をして寝息を立てていた。
 彼女の方が彼氏の肩に寄り掛かるようにしており、その表情は安心しきっているものだ。
 彼女の唇は、柔らかく微笑んでいた。








 目が覚めた時、目の前に駅員らしき人物が立っていて驚いた。
 駅員は苦笑していて、その駅員の言葉を聞いてわたしはそこが終着駅であることを聞かされた。どうやら二人して寝てしまって、降りるべき駅を通り過ぎてしまったらしい。
 すっかり熟睡して、完全に彼に寄り掛かっていたことに気づいてわたしはひたすら狼狽した。救いだったのは彼は駅員に起こされたわたしに起こされるまで一度も起きていなかったらしいことだ。
 すぐに折り返しの電車に乗り込みながら、彼は「やっちまったな」と苦笑いしていたけど、わたしはそれに満足に応えることも出来なかった。
 今度の電車は席が埋まっていて座れなかった。


 それが無性に残念に思えて。










『ゆらゆら揺れて、』終
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