長門有希の体験シリーズ
何にも、縛られることのない




 秋。


 スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、芸術の秋……様々な秋がある。
 様々なイベントが存在する秋だけど……わたしはいつもと変わらず、部室で本を読んでいた。
 部屋の中にいると外で季節がどう移り変わっていようとあまり関係がない。
 部室にはストーブすらないから少し底冷えするようになった、というくらいの変化だ。そのため最近は冬の制服の上にカーディガンを着て寒さに備えている。
 それ以外はいつもと変わらず、部室の隅で本を読んでいた。いつも一緒にいてくれる『彼』は、ついさっきまでいたのだけど、なにか教室に忘れ物をしたとのことで、さきほど出て行ってしまった。
 彼がいなくなった後の部室は、妙に寂しくて、寒さが増したように思える。わたしは一人でいることには慣れていたはずなのに、こういうちょっとしたことでも動揺してしまうようになっていた。
 ……弱くなったのだろうか。
 孤独に耐えれなくなったのだから、弱くなったと言えるかもしれない。
 もう、孤独に耐えられる強さは欲しくなかったけれど。


「失礼するわね」


 突然だった。
 いつの間に部屋の外までやってきていたのか、朝倉涼子が部室のドアを開けた。
 思わず、過剰に反応して、膝の上に乗せていた本を床に落としてしまう。それを拾うのも忘れて、わたしはドアを開けて入ってきた朝倉涼子を見つめていた。彼女は実に自然な足取りで部屋の中に入ってきて――わたしの傍まで来て、わたしが落としてしまっていた本を拾い上げた。
「ごめんなさい。驚かせちゃった?」
 驚き過ぎて、反応が出来なかった。身体は動き方を忘れてしまったかのように動かない。
 そんなわたしをどう見たのか、彼女は浮かべる笑みを濃くして、左手に取っていた本を机の上に置く。と、そこでわたしは彼女が右手を自分の身体の後ろに回していることに気付いた。何か隠しているような様子だけど……。
 彼女はわたしに向き直り、じっと見つめてくる。わたしは思わず首を竦めて俯いてしまう。
 視界の上半分に彼女の足が見える。
「な、なに…………?」
 震える声を絞り出して、なんとかわたしは彼女に向けてそう聴くことに成功した。たったこれだけのことなのに、息苦しくなって視界が回りそうになる。彼に対してはもう少しマシな話し方が出来るのに、相変わらず彼女に対してはこんな言動しか出来ない自分が嫌になった。
 彼女はわたしのために夕食の余りを(それは口実で、実はちゃんとわたしの分として作ってくれていることに気付いてはいたけど)持ってきてくれたり、彼に関することでも色々としてくれていたりするのに、わたしはそれに報いることが出来ていない。
 彼女に対しては申し訳なさで一杯だけど、どうしても身体が上手く動いてくれない。情けない自分。
 朝倉涼子はそんなことは気にしないのか、それとも気にしているけど素振りには出さないようにしているのか。わからないけど、後ろに回していた手を、少し大袈裟な動作で前に持ってくる。
 その手に握られていたのは――
「膝掛け、よ。この部屋じゃ、これからの季節は寒いでしょ? だから、これを膝にかけて。保温性はばっちりだから」
 風邪なんて引いちゃだめよ、とまるで姉のような口調で言いながら彼女はその膝掛けを広げてわたしの膝にかけた。一見酷く薄いように見えたその膝掛けは、材質がいいのが意外に暖かかった。
 彼女は相変わらずの笑顔でわたしに向けて問いかけてくる。
「どう? 暖かい?」
 すごく暖かい。自覚はしていなくても意外に足が冷えていたようで、じんわりとした暖かさが被せられたところから広がっていった。
 わたしは頷いて彼女の言葉に答えを返す。彼女は「それならよかった」と言わんばかりに頷き、机の上においていた本をわたしの膝の上に置いてくれる。
「その膝掛けはあげるわ。部室に置きっぱなしにしてくれて構わないから」
 じゃあね、と言って朝倉涼子はきびすを返し、去ろうとする。わたしは内心大いに慌てた。まだお礼を言っていない。なんでわたしにここまでしてくれるのかも気になるけど、まだお礼の言葉も言っていない。
 わたしは手を伸ばして彼女の袖を掴んだ。
 彼女は一瞬気付かず、危うく振り払われるところだったけど、なんとか止まってくれた。振り向いた彼女の顔は少し驚いているようにも見えた。
「どうしたの?」
 お礼を言いたいだけ、だけど…………。
 とっさに声が出ない。何度か失敗した。それでも何とか声を絞り出す。
「あ、の…………ありが、とう…………」
 言えた。
 思わず、ふぅ、とため息を吐いてしまう。こんなことにも疲れてしまう自分の弱さを情けなく思った。
 朝倉涼子は、というと……なぜか、さっきよりももっと驚いたような顔になっていた。
「………………どういたしまして」
 驚いた顔は変わらないまま、彼女はそう言ってくれた。わたしが「お礼を言う」ということはそんなに驚くようなことだったのだろうか…………。
「なにか…………御礼を…………」
 いつもいつも彼女には助けられている。そのお礼も兼ねて何かしたいと思った。その気持ちが思わず零れたのだけど…………彼女は軽く笑った。
「いいわよ。別に御礼なんて」
「でも…………」
 それではあまりにも申し訳が立たない。
 彼女は実に彼女らしく、快活に笑った。
「本当に、いいのよ。わたしが好きでやっていることだもの」
 そうじゃなくて。
 なんでわたしなんかのために、色々してくれるのか。
 そこが、気になる。
 言葉にして聞ければよかったのだけど、言葉にならなかった。
 彼女は楽しげに笑いながら、部屋の外へと去っていく。
「長門さん。あなたは気にしなくていいの。本当にわたしが勝手にしていることだもの。だから――彼とお幸せにね」
 じゃあね、とひらひら手を振って、彼女は部屋のドアを閉めてしまった。
 取り残されたわたしは、暫く動けなかった。
 そうしているうちに、忘れ物を取りに行っていたらしい彼が部室に戻ってくる。
 本を読まずにドアを見て固まっていたわたしを不思議に思ったのだろう。彼が問いかけてくる。
「どうした? 長門」
 優しい声でかけられた疑問の声。わたしは黙ってひざかけに視線を落とした。
 その視線を追ったのか、彼がわたしの膝にかけられていた膝掛けに気付いた。少し驚いたような声が降ってくる。
「それ、どうしたんだ?」
 わたしは小さく声を上げて答えた。
「くれた…………朝倉涼子が…………」
 次の反応まで、若干の時間があった。
 彼は「そっか」と小さく呟く。
「さすが、委員長…………気配りがマメだな」




 そろそろ下校する時刻になった。いつものように、彼はわたしを家まで送ってくれるらしく、荷物を持って立ち上がる。
「じゃあ行くか、長門」
 わたしは頷き、荷物を持って立ち上がった。すると彼が目を瞬かせる。
「あれ? 長門、それ持って帰るのか?」
 言いながら彼を指さしたのは、朝倉涼子がわたしにくれたひざかけ。きちんと折り畳んだそれを鞄の中に入れたわたしは、ぱんぱんになった鞄を持ち上げて頷いた。
「荷物になるぞ?」
 構わない。彼女には「部室においたままにしてくれていいから」と言われていたけど――置いて帰りたくなかった。
 だから、もう一度大きく頷いた。
「いい」
 別にこれで彼女がしてくれたことに報いれたとは思わない。これはわたしが勝手にしていること。
 だからこそ――膝掛けを持って帰りたいと想ったのも、何にも縛られることのない、わたし自身の想いだ。


 彼女がくれた暖かいモノを、寒い部室に置いたままにしたくはない、という想いは。












『何にも、縛られることのない』終
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