長門有希の体験シリーズ
『其れは、雪の如く』




 それは雪のように降り積もる。
 穏やかに。
 静かに。
 降り積もる。








 わたしは本を読んでいた。
 授業が終わったいつもの放課後。
 いつもと同じように、いつもと変わりなく、文芸部部室で本を読んでいた。
 一人、文芸部の部屋の隅で静かに、ひっそりと。
 一週間前まで、ここでこうして下校時刻になるまで独りで本を読むのが習慣だった。
 家に帰っても独りなのは変わりなかったし、学校なら周囲に(目に見えるほど近くではないが、それでも周囲と呼べる距離)人もいる。
 独り暮らしを初めてもう半年以上。教室でも独りで居る自分。
 半年もそんな生活を続けていると、さすがに寂しさや哀しさは薄れていたけど、それでも独りでいるのは嫌だった。
 何故、過去形なのかというと、もうわたしは独りではないから。
 一週間前、彼が入部届けを提出してくれたことで、わたしは独りではなくなった。
 今日、彼は掃除当番。まだ部室に来ていないのはそういう訳。
 だからわたしは待っている。
 と、言っても彼が来たからと言って何かをするわけでは無い。
 唯、この部室で時間を潰す(嫌な表現だがこれが一番的確)。
 わたしは相変わらず思ったことがすぐに口に出せなかったし、彼もそれほど多弁なわけではないから。
 でも、一緒に居てくれるだけでわたしは十分だとも思っていた。
 今までは一緒にいる人すらいなかったのだから。
 いつか一緒にいるだけではダメになってしまうのかもしれないが、それはその時に考えることにしている。
 今は、唯一緒に居る時間を噛み締めていたい。
 何故なら彼は……わたしの


――と、そこまで思考したところで聴覚が足音を感知した。


 廊下から聴こえてくる足音。
 疑問を持つまでもない。この一週間で、足音を聴くだけで誰の物かわかるようになった。
 だけど、出迎えたりはしない。柄じゃなかったし、何より誰かと視線を合わせるのはやっぱり恥ずかしかったから。
 本を読んでいる姿勢のままで、その足音に耳を済ませる。
 ちょっと急いでいるように思えた。ひょっとして、掃除当番でいつもより来るのが遅れたのを気にしてるのだろうか?
 ちょっと自己本位な考えかもしれないと思ったが、そうであったらいい、とも思う。
 彼がわたしのことを気にかけてくれていたら、それだけでわたしは暖かい気持ちになれる。
 そんな風に思考に没頭していたら、ノックの音がやけに大きく聴こえて、思わず身体を縮ませてしまった。
 少し慌ててノックに返答を返す。
 わたしの返答を受けて、ドアノブが動いた。
 開いたドアから顔を覗かせたのは、決して整っているわけではない、けれど何処か頼りがいのある顔。
 当然だが彼だった。
 視界の端でやって来たのが彼だと確認すると、ほっと一息を吐いた。
 彼の顔を部室で見る度に安心してしまう。
 彼が入部して一週間経った今でも、やはり彼のことが夢の中での出来事だったように思えて、また独り部室で黙々と本を読む日が来るのではないかと思ってしまうのだ。
 自分でも小心者だと思う。夢のはずが無いのに、消えてしまうかもしれないと怯えてしまうなんて。
 ……そんなことを考えていても、多分、端から見ていたら無表情のまま、訪れてきた彼に一瞥もくれず本を読み続けているように見えるのだろう。
 そんな反応しか出来ない自分が我ながら嫌だったが、それはもう性格というよりも性質の粋なので自分ではどうすることも出来ない。
 そんな風に延々考えていると、部室に入って来た彼が口を開いた。
「何だ、まだ長門だけか……あ、いや違う。長門だけだ。……よ、よう長門」
 始めの一言は条件反射的に呟いたようだった。
 たまに彼はこういうことを言う。まるで、ここにはわたしの他にも人がいるのが当たり前のような言動。
 ここに彼が初めて飛び込んで来た時の話もそれに近かった。
 一体、過去に彼に何があったのかわたしは知らない。
 いつか彼が話してくれればいいと思うが、別に話してくれなくてもいいとも思う。
 彼はバツが悪そうに何度かわざとらしい咳をして、改めて口を開いた。
「長門、何の本を読んでいるんだ?」
 問われたわたしは読んでいた本を持ち上げ、背表紙を彼に見せた。
「面白い?」
 わたしはその質問に対して考える。
 この本は面白い。世界感は見事の一言だし、登場人物に個性がある。意外な展開で読者の目を離さない。何より現実味があるのがいい。フィクションをフィクションと思わせない作者の筆力は素晴らしいと思う。
 などと、色んなことを考えた。
 しかし言葉にしようとすると上手くいかない。
 わたしは必死になって言葉を探し、何度か声を上げかけて失敗して、結局、
「ユニーク」
 の一言だけ発することが出来た。
 ああ、口下手な自分が嫌になる。そして表情が顔に出にくいから誤解される。始めからそれだけを言うつもりだったように。だからいつまで経っても友達が出来ない。
 大体、本の感想を訊かれて一言だけ返したら、訊かれたから仕方なく答えましたと言っているようなもの。
 気を悪くする人だっているだろう。
「へえ。じゃあそれ読み終わったら貸してくれるか? 俺も読みたいからさ」
 彼は優しい。明らかに言葉足らずだと思われる私の言葉に、嫌な顔一つしない。
 ……たまに苦笑されるけど。
 勿論、貸すことに是非はない。新しく買って進呈したいくらい。
 だから彼に肯定だと伝えるために、なるべく大きく頷いた。
 入部して以来、彼はこの部室で本を読んでいる。(わたしに付き合って、というのは自意識過剰というものだろう)
 彼は、最近はあまり本を読んでいなかったようだが、昔は良く読んでいたらしく、結構読書スピードが速い。
 わたしとは違い、彼は薄めの文庫本を良く読んでいる。わたしが薦めた(先程のようにわたしが読んでいた本に彼が興味を示すこともある)本も良く読んでくれているようだ。
 彼が鞄から本を取り出して読み出したので、わたしも読書に戻る。
 しかし彼の存在を意識して読書スピードは一人で居る時の二分の一程度しか出ない。
 でも、それは不快ではなく、むしろ心地良い。
 『二人』が本のページを捲る音が、『二人』しかいない部室の空間に広がり、溶けて行く。
 『独り』が『二人』になっただけで、こうも受ける雰囲気というものは違うのか、と思う。
 話をするわけでもない。一緒に何かをするわけでもない。
 ただ二人で居るだけ。
 ただ同じ場所にいるだけ。
 ただ時間を共に過ごすだけ。
 穏やかに、静かに。


 この時が永遠に続けばいいのに――――


 そんなことを、想った。





 二人の時間が積もりゆく。
 其れは、雪の如く。










『其れは雪の如く』終
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