ある時、朝倉涼子がおでんと一緒にこんな話を持ってきた。
彼が放課後になると部室に来る、ということに慣れ始めていた頃。
食事に興味が無くていつもろくなものを食べないわたしのところに、同じマンションに住む朝倉涼子がおでんを持ってやってきた。
彼女も独り暮らしなのか、よくこうして晩御飯を持ってきてわたしに食べさせてくれるのだ。
あまりにわたしがろくなものを食べないから、たまにはまともなものを食べろと言うことらしい。
その気遣いは嬉しかったけど、朝倉涼子は早口で喋るために、わたしとはほとんど会話にならない。
だから一緒に食べる時は少し緊張してしまい、折角の美味しい料理を味わえなかったりするから困ってしまう。
きっと朝倉涼子にとってのわたしは『世話の焼ける妹』のような認識なのだろう。
その日、おでんを持ってきた朝倉涼子は何かを企んでいる顔をしていた。
何故だろう。嫌な予感がする。
「また沢山作り過ぎちゃったわ。今日は『彼』もいないし、困ったわね」
言葉は困っているようでも、顔は全然困っていない。
『彼』という辺りを強調して、わたしをからかっているのだ。
彼が文芸部に所属した時、どこから聞きつけたのか朝倉涼子は即座にその事実を把握していた。
そして『ひょっとして付き合うことにしたの? まさかとは思うけど、無理強いされたんじゃないでしょうね。何かあったらすぐに教えて。わたしが彼をぶん突き刺してあげるから』などと言ってわたしのことを心配してくれたのだ。ちょっと過激な気もしたけど……。
とはいえ、彼はただ文芸部に入っただけであり、彼氏彼女の関係になったわけではないから、その朝倉涼子の心配は杞憂と言うべき。
しかし彼女の中ではわたしと彼はすでに付き合っている関係にあるらしい。
いつか訂正をしなければならない。出来るのかどうかはわからないけど。
つらつらとそんなことを考えていたから、朝倉涼子が問いかけていることに暫く気付かなかった。
「――――とさん、長門さん、聴いてる?」
問いかけにようやく気付いたわたしは、慌てて頷く。
聴いていなかったことは丸分かりだ。案の定、朝倉涼子は呆れたような顔をして、
「もう、折角面白い話を持ってきてあげたのに」
面白い話? 何だろう。有名な作家の新作でも出るんだろうか?
自分にとっての『面白い話』を思い浮かべたが、即座に違うと気が付いた。
何故なら、彼女の顔が意味ありげな笑顔を浮かべていたからだ。
こういう顔をする時、それは間違いなくあの人とわたしとの仲を邪推していう時だ。
今度は何だろう。もう手を繋いだとかキスをしたかとかそういうことを訊きたいんだろうか。
彼と手を繋いだりキスをしている様を思い浮かべかけ、慌ててその思考を打ち消した。
冗談じゃない。少しでも顔が赤くなったら間違いなく朝倉涼子は誤解する。
したわけもないのに、したということにされ、彼に迷惑がかかる事態に発展するかもしれない。
わたしは勤めて平静を装いながら、朝倉涼子が口を開くのを待った。
…………やけに間が長い気がする。
待っている間も、朝倉涼子はにやにやとした笑いを浮かべている。まるでこれから彼女が発する言葉でわたしがどれほど驚くだろうか、と想像しているような笑みだ。
一体何の話なのだろう。
果たして、朝倉涼子は口を開いた。
「実はね、今日うちのクラスで小耳に挟んだんだけど…………」
傾聴。
「国木田と谷口っていう彼と仲の良い男子がいるんだけどね、それが彼と話しているのを聴いちゃったのよ」
傾聴。
「彼ね――――眼鏡属性ないらしいわ」
傾ちょ………………?
思考がフリーズした。三十秒くらい。
詳しく話を聴くと、こういうことらしい。
昼休み。
三人で弁当を広げていた彼らのうち、谷口という軽薄そうな男子(朝倉涼子談)がこんなことを言い始めたらしい。
「やっぱさー、萌え要素って大事だと思うんだよ」
国木田というマイペースな男子(これも朝倉涼子談)は「そうだね」と適当に賛同して、彼は、
「はあ?」
と零下百度くらいの声で返したらしい。
その冷たい声がいけなかったのか谷口という男子は、
「何だよその興味の無さそうなリアクション! 萌え要素って大事だろ!? 萌えだぜ萌え! THE萌え!」
「少なくとも教室で連呼する言葉じゃないな。萌えと言う度にお前の別な大事なものがどんどん消えていってるぞ」
さすがは彼だ。淀みの無いツッコミ。
けれど谷口という男子は彼の的確なツッコミにも負けず、
「これ以上に大事なことなんてあるか! 二年の朝比奈みくるのようにロリで巨乳でドジっ子なんていうのも立派な萌え要素なんだぞ! だから萌え要素を批判するってことは、朝比奈さんを否定することなんだ! それが出来るのか!キョン!」
それでも彼は平然と、
「昔は確かにそれがいいと思っていたときもあったが…………今は朝比奈さんにそこまで思い入れは無いぜ」
「きょ、キョン! 裏切るのか!」
「お前と同盟を組んでいた覚えも、相棒であった覚えもない。勝手に仲間にするな」
谷口という男子は、拳を握り締めて何かに耐えていたようだが、不意に笑ったらしい。
「ふっふっふ。キョンよ。甘い、甘いぞ。キャラメル付きのプリンより甘い!」
「プリンには大抵キャラメル付いてなかったか…………?」
的確なツッコミも、谷口という男子には無効化される。
「キョンよ! お前は萌え要素なんかに興味は無いという顔をしていながらも、実は一つの萌え要素に惹かれているのだ!」
「勝手に俺の趣味嗜好を決めるな。俺が興味を引かれる萌え要素ってのは何だよ? 一応訊いといてやる」
谷口という男子は大きく息を吸い込み(やけに芝居がかった人だな、とわたしは思った)、
「ずばり! 『眼鏡属性』だ! あのAランクマイナーの長門有希がいる文芸部入部したことを知らぬ俺ではないぞ!」
ちなみにAランクマイナーというのは、谷口という男子主観による独断と偏見によって一年女子全員につけられた符号の一つらしい。さらにちなみに、朝倉涼子はAAランクプラス。……マイナー。
「どうだ。反論出来まい!」
谷口という男子は高笑いをしたらしいけど、彼は呆れたようにこう言った。
「無いぞ。眼鏡属性なんて」
「はっはっは…………何い!? 嘘吐け!」
「ほんとだって。長門だって眼鏡を外した方が可愛かった…………あ、いや可愛いと思うし」
「何だよそれ!? こいつは眼鏡属性持ちだと絶対思ってたのに…………っ」
と、こんな感じの話を、繰り広げていたらしい。
そして、それを聴いた(恐らく『聞いた』では無く、『聴いた』だ)朝倉涼子が、いまこうしてわたしにそのことを話してくれたというわけだった。
…………どう反応したらいいんだろう。
話を聴き終わって暫く経っても、わたしは固まっていた。
そんなわたしに、朝倉涼子が相変わらずにやにやとした笑みを向けてくる。
「どう? 凄い情報でしょう?」
何がどう凄いのか凄く説明して貰いたい気もするけど、それはそれでまた面倒なことになりそうなので止めた。
「…………」
判断に困る。
一体どうしろというんだろう。
「つまりね、眼鏡を外してみたらってこと」
「…………何故?」
「そりゃ彼の気を引くためよ」
何故、この人はこういう時だけ、わたしと彼が恋人関係にある、という間違った認識を正してしまうんだろう。
大体、眼鏡を外したからって彼がわたしのことを好きになってくれる訳でもないし、何もしない方がいいんじゃないだろうか。
でも、眼鏡を外したら彼に『可愛い』と思われたり…………?
そんなわたしの心中を的確に見抜いたらしい朝倉涼子は、にやりと笑った。
「まあ、ものは試しだし、一度外して見れば?『可愛い』とか言われちゃったりするかもしれないわよ?」
彼に、可愛いと言われる…………?
その光景は想像しにくいが、もし、そんなことを彼に言われたら…………。
とても嬉しいことだと思われた。
次の日。
わたしは授業を聴きながら、頭の隅で眼鏡について考える。
この眼鏡は伊達だ。
直接人の目が見れなかったわたしは、苦肉の策として眼鏡をかけることにした。
結局あまり効果は無かったが、折角買ったのだから、かけなければ勿体無いと思い、いつもかけている。
だから外しても生活には何の問題も無い。
でも急に外すのも躊躇いがある。
彼が教室で谷口という男子と会話を交わしていたのも昨日の話しだと言うし、妙な偶然だと思われるだけならともかく、意識してやっているなんて思われたら恥ずかしいこと極まりない。
やはり何もしないでおこう。
わたしはそう思った。
誰かの気を引くなんて柄じゃない。
授業の終了を告げるチャイムが鳴って、学校は放課後に移行する。
今まで通り、部室で一緒に本を読めていれば、それだけで十分。
わたしは鞄を手に、部室に向かう。
でも偶然とは本当に恐ろしい。。
廊下の角を曲がる時。
誰かが走って飛び出してきた。
不意のことだったのでわたしはかわすことが出来なかった。
わたしは突き飛ばされて尻餅を突き、その拍子に眼鏡が落ちる。
そしてその走ってきた男子生徒はわたしを突き飛ばしたのに気付かずに脚を進め、
―――落ちたわたしの眼鏡を、踏み潰してしまった。
「ああっ!?ご、ごめん!」
慌ててその男子は脚をどけたけど、眼鏡はフレームが折れ、レンズに亀裂が入ってしまっていた。
男子の顔から血の気がさっと引く。
わたしは、壊れた眼鏡をじっと見詰めていた。
どうしよう。
これでは、かけられない。
「あ、な、長門さん…………だよね? ご、ごめん! 眼鏡、弁償するよ!」
それは色々ややこしい。これは伊達眼鏡だ。
だからわたしは首を横に振った。
それに慣れていない男の人とこれ以上顔を合わせていることが出来なかった。
緊張で張り裂けそうになっている心臓を無理やり抑え込みつつ、わたしはその男子生徒に向かって首を横に振る。
「…………いい」
「で、でも」
納得出来ないのか、少し慌てた様子でその男子生徒は何か言おうとした。
その時、
「おい、何やってる」
低い声が聞えて来た。聞き覚えのある声。
わたしがそちらを見ると、予想した通りの人物が憤然とした顔持ちで立っていた。
「長門、大丈夫か?」
何故、このタイミングで。
わたしは裸眼でその人を見ることが出来ず、俯いたまま答えた。
「大丈夫」
そう答えたわたしの視界の端に、差し伸べられたその人の手が見えた。
そういえば、尻餅を突いて倒れてしまっていたんだった。眼鏡が壊れたという事実に驚き過ぎて、起き上がるのを忘れていた。
差し伸べられた手を無視することなど出来ず、わたしはその手に掴まる。
力強く引き起こされて、わたしは立ち上がった。
わたしを引き起こしてくれたその人は、眼鏡を壊してしまった男子に向かって怒りの視線を向けていた。
「おい。何やったんだ?お前」
声にも明確な怒りが篭っている。顔を青くしていた男子の顔から、益々血の気が引いた。
男子生徒が気の毒に思えたわたしは、わたしのために怒ってくれている彼の袖を指先で摘まんで存在を主張した。
小さな力しか込めなかったけど、彼はちゃんと気付いてわたしの方を見てくれた。
「長門?」
「いい。ぶつかっただけ。事故」
それは紛れもない事実。その男子生徒に非は無い。
…………廊下を走ったという非はあるかもしれないけれど。
でも、あくまでも不幸な事故の範疇であり、あまり責めたら可哀相だ。
彼はわかってくれたらしく、怒りのオーラが少し弱まったように思えた。
「しかし…………眼鏡はどうするんだ? 見えるのか?」
「大丈夫」
伊達眼鏡だし。
「…………まあ、お前がそれでいいなら、いいけど。…………とりあえず壊れた眼鏡を回収しないとな。危ないし。おい、手伝え」
その人はわたしにぶつかった男子に敵意の篭った視線を送った。
可哀相に、その男子は明らかに怯えている。
正直、予想外だった。こんなに彼が怒るなんて。
わたしが突き飛ばされたから……というのは自意識過剰…………なのだろうか。
結局、彼が単にこういうことが許せない性質なのかもしれない、と考えた。
わたしがそんなことを考えている間に壊れた眼鏡を回収し終わったのか、ぶつかってきた男子生徒は何度も謝りながら、去っていった。
眼鏡の残骸をハンカチで包んでわたしに渡しながら、その人は言った。
「こりゃ完全に壊れてるから捨てるしかないな…………本当に良かったのか? 弁償させないで」
わたしは頷く。
「そうか。お前がそう言うならいいけど。…………そうだ。怪我は無いか? どこも痛くないか?」
言われてわたしは自分の身体を点検する。
乱れた服を調えて、スカートを払う。どこにも問題は無いと思われた。
実は尻餅を突いたために、多少お尻がじんじんしていたが、場所が場所だけにそれは彼には言いたくない。ちょっと打ち付けただけだし、特に問題はないと判断する。
わたしは彼に向かってこくりと頷いた。
すると彼はほっとため息を一つ吐き、安心したように微笑を浮かべる。
「そうか」
彼が心配してくれた、そのことが嬉しい。
この気持ちが素直に表情に出ればいいんだけど、多分表情には出ていないと思う。
不器用な自分に少し嫌気がする。
「偶然ここを通りかかって良かったよ」
彼はそう言ったが、わたしも彼が通りかかってくれて助かった。
わたし一人では上手くあの男子と会話することも出来なかっただろう。
そのことにお礼を言おうと思って、わたしは彼の顔を見上げた。
と、その彼がわたしのことをじっと見ていることに初めて気付く。
視線がばっちり合ってしまい、頬があっと言う間に紅潮していくのを実感した。
思わず視線を下げて俯いてしまう。彼を避けたように映っていなければいいのだけど。
「…………やっぱ…………方が…………」
ぽつりと彼が呟く声が聞えた。
「え」
何て言ったんだろう?
思わず顔を上げると、今度は彼があからさまに顔を逸らして、
「あ、いやその…………」
彼は言いにくそうにしていたが、やがてぽつりと言った。
「やっぱ、眼鏡してない方が可愛いなって…………思ってな」
「―――っ!?」
瞬間、高熱を出した時みたいに顔に血が上った。
慌てて顔を逸らす寸前、彼も同じように顔を真っ赤にしていたのが見えた。
どうしよう。
まさか本当に『可愛い』なんて言われるなんて…………。
嬉しすぎてまともに顔を上げることすら出来ない。
二人して顔を逸らして立ち尽くしていると、
「あれ? 二人とも、こんなところで何をしているの?」
間の悪いことに(あるいは良いことに)朝倉涼子がやって来た。
「な、なんでもねえよ」
少し上擦った声で彼が答えて、わたしも慌てて頷く。
朝倉涼子は暫くそんな彼とわたしを見ていたが、不意にわたしの状態に気付いたのか、
「あれ? 長門さん眼鏡――――」
と言いかけて止まった。ふふふ、と含みのある笑みが彼女の顔に広がっていく。
まずい。
確実に誤解されている。
「じ、事故」
わたしが呟くと、彼が私の持つハンカチに包んだ眼鏡を示して、
「長門が男子にぶつかられてな…………それで、眼鏡が壊れちまったんだよ」
「え?! 長門さん、怪我は?」
途端に心配そうな顔になって、朝倉涼子はわたしに向かって訊いてきた。
「していない」
「そう…………それなら良かったわ」
彼女はほっとした顔になった。
そして彼女は彼に向かって「で、そのぶつかったっていう男子は?」と問いかけ、彼は「帰ったよ。長門が弁償はいいって言うし」と答えていた。
二人の会話を聴きながら、わたしは手の中にある眼鏡を見た。
伊達とはいえ、かなり長い間かけていた眼鏡だ。
それなりに愛着もあるし、正直壊れてしまったのは悲しい。
でも、わたしはこれを修理せず、新しい伊達眼鏡も買わないだろう。
――彼の言葉が嬉しかったから。
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