長門有希の体験シリーズ
広がるせかい




「あっついわね……」
 うだるような熱気の中、凉宮ハルヒがそう呟いた。
 その呟きに彼が応じる。
「夏だからな」
 ひどく順当な台詞。しかし凉宮ハルヒは不機嫌な顔つきになった。
「そんなことはわかっているのよ! あたしが言いたいのは、この暑さを何とかしなさいってこと!」
「無茶を言うなよ……」
 憮然とした様子で彼が言う。全くだと思った。
 いま、わたしたちは学外サークル『SOS団』の活動の一貫として、不思議なものを探索しに街歩きを行っているところだ。
 その道中、あまり来たことがない公園で休んでいる。
 なるべく直射日光が当たらないような場所を選んでいるとはいえ、夏場の野外は暑い。
 そのため冒頭の凉宮ハルヒの台詞が出たわけだ。
 夏場の暑いときには図書館に行くのが、わたしなりの夏の過ごし方だけど、きっと凉宮ハルヒは承諾しないだろう。
 彼は盛大に溜息を吐いたあと、立ち上がった。
「仕方ないな……そこらのコンビニか自販機でジュースでも買ってきてやるよ。ただし、奢らないからな」
「待ちなさいジョン!」
「……なんだよ」
「どうせならアイスの方がいいわ。よろしく」
「そのよろしくは、まさか『お金は出してね』って意味じゃないだろうな?」
 彼が不機嫌な顔でそう指摘すると凉宮ハルヒは大きく舌打ちをした。
「鋭いわね……」
 呆れ返る彼。
 どう反応すればいいのか困っている様子の朝比奈みくる。
 「惜しかったですね」などと楽しげに言う古泉一樹。
 SOS団の面々は相変わらずだった。
 気を取り直したように涼宮ハルヒが立ち上がり、歩き出す。
「ここで待ってるのも暑いし、皆でコンビニに行きましょうか。ここで座ってるより、そっちの方が休憩になるでしょ?」
 異論は誰からも出なかった。








「涼しいわねー!」
 店内に入った涼宮ハルヒの大きな第一声に、店内にいた客の何人かがこちらを見た。
 注目を集めてしまうハルヒに、少し焦った風に彼が言う。
「馬鹿、ハルヒ、お前声が大きいんだよ」
 彼は気になっているようだったが、涼宮ハルヒは気にしていないようで、
「どうでもいいじゃないのそんなの。それよりさっさと選びましょ!」
 あっさりとした様子でそう言い、楽しげな様子でアイスのケースに突進していった。
 それに追従する古泉一樹を見送ったあと、わたしは身体的なものと精神的な疲れから小さくため息を吐いた。


――そのため息に別の人間のため息が重なる。


 彼ではない。彼よりも遥かに弱々しいため息だった。
 思わずそちらを見ると、朝比奈みくるが同じようにわたしの方を見ていた。
 目が合い、二人して固まってしまう。
「あ、えっと……」
「…………」
「あ、暑いですね。い、いえ今は涼しいんですけど……」
「…………」
「…………」
「…………」
 凄く気まずい。
 その妙な緊張状態を打破してくれたのは、こちらの様子を確認するために振り向いた彼。
「長門、大丈夫か? 気分とか悪くなってないか? 朝比奈さんも、こんな暑い日は体力の消耗が激しいでしょう?」
 心配そうな彼に、わたしは首を横に振って見せる。
「だ、大丈夫です……」
 一方、朝比奈みくるは僅かに怯えているような様子でそう答えた。
 彼はほんの少し哀しそうな顔になる。
 けどすぐにその表情を消して、にこやかに言う。
「そうですか。ならよかった。朝比奈さんも遠慮せず選んでください。どうも俺が支払うことになってるみたいなので」
「じ、自分で払いますから」
 遠慮しようとした朝比奈みくるだが、
「気にすることないわよみくるちゃん! キョンにばんばん奢って貰いましょ!」
「あのなハルヒ……ばんばんってなんだ。俺を破産させる気か」
 彼はそう言ったが凉宮ハルヒは聞く耳を持たず、さっさと朝比奈みくるを連れてアイス選びに行ってしまう。
 やれやれ、とばかりに彼がため息を吐く。
「……長門も遠慮せず選べよ?」
 本当にそれでいいのか見極めるため、わたしは彼を見つめる。
 彼はその意図を読み取ってくれた。
「ああ、大丈夫だから心配そうなすんな。いまのところピンチじゃないしな」
 この数ヵ月であまり遠慮しすぎると逆に彼に気を使わせてしまうことがわかっていたから、わたしはそれ以上固辞しないことにする。
 その代わり、お礼はきちんと忘れずに言う。
「…………ありがとう」
 聞こえるかどうか微妙な程度でしか声は出なかったけど。
 彼が微笑んでくれたから、わたしは自分の意志が彼に伝わったことを感じた。








 再び、公園。
「やっぱり夏と言えばアイスよね!」
 わたしたちは横に二つ並んだベンチに二手に別れて座っている。
 別れ方は女性陣と男性陣だ。
 真ん中に朝比奈みくるが座り、男性陣側のベンチがある方に凉宮ハルヒ。その反対側にわたし。
 男性陣は女性陣のいる側に彼が座り、その隣に古泉一樹が座っている。
「全くその通りかと」
 古泉一樹は凉宮ハルヒの台詞を肯定することしか言わない。
 以前彼は「古泉のせいでハルヒが調子に乗るんだよな……」とぼやいていた。
「まあ、美味いことは美味いけどな……でも、あえて冬場に食べる奴もいるぞ?」
 その彼の言葉は涼宮ハルヒの、
「あたしはそんな変人じゃないわよ」
 という言葉によって流された。もちろん彼が苦笑いしていたことは言うまでもない。
 わたしは自分の手にあるアイスを見る。
 食べるのは初めてではない。でもなんとなく見つめてしまう。
 わたしが選んだのはオーソドックスなバニラ味のアイスクリームで、これもまた基本的なコーンに盛られたものだ。
 カップ型のアイスは家で食べたことがあるけど、この手のアイスクリームは初めて。もちろん、外で食べるのも。
 わたしは舌を出してアイスを舐めてみた。冷たい感触が舌を刺す。甘い味が下に移り、そして口内に広がる。
 おいしい。
 暑い中で食べているから余計にそう思えるのだろう。
 しかし、暑いからかどんどんアイスは溶け始め、コーンの溝を超えてこぼれそうになる。
 慌てて零れそうな分を舐め取ったけど、あとからあとから垂れてくるアイスを全部舐め切るのは無理だった。
 溢れたアイスが握っている手にまで垂れてきて、どうしていいかわからず狼狽する。


「落ちつけ、長門」


 ふわり、という擬音が聞こえてくるかと思った。
 いつのまにか傍に来ていた彼がティッシュを広げて垂れたアイスを拭ってくれる。
 驚いて顔をあげると、彼の優しい目がわたしを見つめていた。
 はしたないところと情けないところを見られてしまった――。
 顔に血が昇っていくのを感じる。
 彼はわたしのそういった様子には何も言わず、ただわたしの手の中にあるアイスを指さした。
「ほら、早く食べないとまた零れるぞ」
 言われてアイスに視線を戻すと、今にもコーンの縁を超えてアイスが流れそうになっていた。
 慌てて舌を伸ばして零れかけていたアイスを舐め取る。
「美味いか?」
 先ほどの名残でまだ恥ずかしくて彼に視線を向けられなかったけど、その問いかけには何とか頷くことができた。
 そりゃよかった、という彼。
 そんな彼に古泉一樹が声をかける。
「ティッシュなんてよく持っていましたね? 失礼ながらあなたの性格からいって、そういう類のものを持ち歩くようには思えないのですが」
 確かに失礼だった。
 だけど、それに涼宮ハルヒが同意する。
「そうね。ジョンにしては気が利きすぎよね」
「たまたまだ」
 彼は失礼な二人にそう素っ気なく答えて、元の位置に戻って行った。
 彼が残してくれたティッシュでどうしても零れてしまうアイスを拭きながら、アイスを舐める。
 また彼に助けられてしまった。
 情けないと思うと同時に、嬉しく思う。
 助けてくれる、というのは彼がわたしのことを認識してくれているという証でもあったから。
 そう、彼と初めて出会った図書館でもそうだった。
 こうしていまわたしここにいるのも、彼がわたしを認識してくれている結果。
 そうでなければ、いまごろわたしはいつも通り家に閉じ籠っていたか、図書館で涼んでいたか――どちらにしても、何の変化もない日常を送っていたはずだ。
 夏の日差しの暑さも、甘く冷たいアイスの味も、美味しさも知らないままだっただろう。
 彼の存在は、いつだってわたしが知らないことを教えてくれる。


 本では知れないことを。
 独りでは知れないことを。


 彼の存在は、わたしにとって、広がる世界そのものだった。
 だからわたしは思う。
 もっと知りたいと。
 知らないことを。
 世界のことを。


――彼のことを。


 そう思わずにはいられなかった。









『広がるせかい』終
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