わたしは、『あの人』と向かい合って座っていた。
いま彼とわたしいるのは、わたしの家。
ここまで招き入れて、お茶を出したまでは良かった。
けど、向かい合ってからどうしても話し出せず、顔を上げては俯き、また上げては、を繰り返していた。
あの人は、わたしが口を開くのを待っていてくれている。
待っていてくれているその人に向かって、わたしは思い切って話し出した。
「わたしはあなたに会ったことがある」
これでは言葉足らずだ。会ったことがあるのは当然なのだから。だから慌てて付け足す。
「学校外で」
「どこだ」
その人は即座に質問を返してきた。ああ、そこも言葉足らずだった。
けどそれより先に言うことがある。
「覚えてる?」
「何を」
本当に忘れてしまっているのかもしれない。けど、ちゃんと言葉で確かめるまでは、そう思いたくなかった。
「図書館のこと」
一瞬、その人が妙な顔をした気がした。
「今年の五月」
覚えているのだろうか、思い出してくれているのだろうか。
顔を見ながら話すことが出来ず、わたしは俯きながら。
「あなたがカードを作ってくれた…………」
わたしは話しながら、そのことを思い出していた。
わたしは、本が好きだった。
本はわたしにとって時間を忘れて夢中になれる、数少ないものだ。
特にSFはいい。何故か懐かしい気持ちになる。
実家にあった本をほとんど読んでしまったわたしは、学校で本を借りていた。高校に入ってからは文芸部の部室に置いてあった本を読んでいた。
でも、ふと市立図書館に行こうと思ったのだ。何故そんなことを考えたのかは覚えていない。
気の迷いだったのかもしれないし、何か理由が会った気もする。
とにかくわたしは五月の半ば頃、初めて市立図書館に足を踏み入れた。
その時の感動は、今なお心が震えるほどだ。
実家の本棚や、文芸部の部室、学校の図書室でさえ比べ物にならない本の量。
整然と並べられた本棚。綺麗に作者順に、ジャンル別に分けられた本の数々。
思わず夢遊病患者のような足取りになっていたかもしれないくらい、図書館を始めてみた感動は大きかった。
…………おおげさだと笑われてしまうだろうか?
けど、わたしにとっては本当にそれくらいの感動があったのだ。
わたしは昼頃から五時くらいまでずっと本棚の前で立ち読みをしていた。
閲覧スペースもあったが、素晴らしい本棚の前で本を読みたかったので、座らなかった。
でも、五時くらいになると、わたしは家に帰らなければならなかった。夕食の買い物をして、夕食を食べなければならない。ほとんどレトルト食品かパック入りの惣菜だったけど。
そろそろ帰らなければならない、けど読んでいる本はまだ途中。
どうしてもその本の続きが気になったわたしは、その本を借りることにした。
けど、貸し出しカードの作り方がよくわからなかった。
職員の人に声をかければ作ってくれるんだろうか? それとも、何か書類を作らなければならないのだろうか?
少ない職員の人たちは皆忙しそうに動き回っているし、呼び止めて質問をする勇気も無かった。
いたずらにカウンターの前をうろうろするだけで、どんどん時間は過ぎていく。
諦めるしかない。
わたしは苦渋の決断をして、カウンターの前まで進めていた足を反転させて本を本棚に返しに向かおうとした。
そのわたしに。
「その本、借りるのか?」
突然、声が降って来た。
ちょっと低くて、落ち着いた感じのする声。
わたしが恐る恐る顔を上げると、そこに格好良くも悪くも無い、一般の人と同じ程度の顔つきをした『その人』が立っていた。
わたしより、頭一つ分くらいその人の方が背が高かったので、自然とわたしは見上げる形になる。
どう反応したらいいのかわからず…………というよりも、今の言葉はわたしに向けられたものだったのかどうかもわからず、その人を見上げて固まっていた。
すると、その人がもう一度。
「その本、借りるのか?」
思わずわたしは頷いた。
「貸し出しカードを忘れた、とか?」
どうやらこの人はずっとわたしの動向を見ていたらしい。
わたしは恥ずかしくなって、俯きながら答えた。
「持ってない」
「何だ、利用するの初めてなのか」
その人はそう言って、わたしをあるテーブルの前まで導いた。
「カードを作る時は、ここで申請用紙に必要事項を書くんだよ。…………えーと、これか」
その人はテーブルの上に置いてあった紙を手に取り、同じくテーブルの上においてあったペンを手に取った。
「えっと、名前は?」
「…………な、長門有希」
「わかった。長門は戦艦長門の『長門』でいいんだよな? ユキは?」
すらすらとその人は紙に書き込んでいる。名前の欄に書き込んでいるらしい。
「えっと…………、有機物の『有』に、希望の『希』」
その人は書き込みながら、
「ふうん。いい名前だな」
と、呟いた。
「…………」
その後、住所や電話番号を記入したその紙を、その人はカウンターに持っていった。
「すいません、貸し出しカードを新しく作るそうですけど」
職員の人にあっさりと声をかけたその人は、二言三言職員の人と言葉を交わし、その職員の人が一度奥に引っ込んだ。戻ってきたその職員の人の手には、真新しい貸し出しカード。
それを受け取った『その人』は、
「ほいよ」
わたしの手にそれを置いてくれた。
「そういや、高校、西高だよな? 何で休みの日までセーラー着てるんだ?」
何でと言われても。私服なんてほとんど持っていないから、と答えるのも何だか嫌だ。
答えようがなく、黙っていると。
「ま、同じ西高みたいだし、また会うかもしれないな。じゃあな」
すっと片手を挙げ、その人は出口に向かって歩いていく。
そこでわたしはまだお礼を言っていないことに気付いた。
「あ、…………ありがとうっ」
必死に搾り出したにしては、その声はとても小さかったけど、その人は再び片手を挙げひらひらと振って、聴こえていることを示してくれた。
わたしはその人が見えなくなってからも、暫く呆然としていた。
とても、嬉しかった。
「…………」
沈黙が流れる。
言うべきことは全部言った。覚えているのかいないのか、それだけでも答えてくれればいいのに、その人は延々と黙ったまま。
やはり思い出してもくれないのだろうか。あまりにわたしが必死なので、覚えていないとはっきり言うのも躊躇っているのか。
わたしは何とも言えない悲しい気持ちになって、茶碗の縁を、震える指先でなぞった。
とても、哀しい。
何と表現するべきだろう。ずっと自分で大事に大事に思い続けた大事な思い出が踏みにじられた、とでもいうのだろうか。しかも、踏みにじった相手はその大事な思い出の相手だったとでもいうような? いや、これは違うかもしれない。
とにかく、哀しくて、寂しかった。
勝手に大事に想い続けて、勝手に残念に想って…………何と勝手な人間だろう。
挙句、泣きそうだなんて。
何て、馬鹿なのだろ――――
ぴん、ぽーん――――。
永劫に続いてしまいそうだった沈黙の時間が、唐突に破られた。
まさに飛び上がるほど驚いたが、向かい合っていた『その人』も相当驚いたようだった。
二人して硬直してしまう。
ぴん、ぽーん――――。
もう一度ベルの音が鳴ったので、わたしは立ち上がってインターホンのパネルの前に移動する。
パネルを操作して、訪問者が誰か確かめると、
『あー、長門さん? 朝倉だけど」
同じマンションに住んでいる朝倉涼子の声が聴こえて来た。
同じマンションのよしみだといって、彼女はたまに差し入れをしてくれうのだ。
わたしがあまりにもまともなものを食べないから、そうしてくれている。
それは素直にありがたいのだけど、今日は困ってしまう。『あの人』がいるのだ。
だから断ろうと思ったのだけど、
「今は…………」
『早くドアを開けてくれる? 今日はおでんなんだけど、重いのよね」
「でも…………」
『ちょーと作り過ぎちゃって。でも自信作よ。味見したから間違いなく美味しいわ』
わたしは朝倉涼子が苦手だ。
陽気で色んなことを話しかけてくれるのだけど、口下手なわたしはそれに応えられない。
彼女ばかりがどんどん話をしていくので、まともに会話が成立しないのだ。
いい人なのだけど、わたしは彼女が苦手だった。
「待ってて」
本当は帰って欲しかったけど、断り切れずに玄関の扉を開けに行く。
わたしが開けかけたドアを、肩で押し開けるようにして入って来た朝倉涼子は、部屋にいた彼を見てびっくりしたような声を上げた。
「あら? なぜ、あなたがここにいるの?」
そういえば、朝倉涼子と彼は同じクラスだったような気がする。考えてみれば、彼女に訊けば彼について色々と情報を得れたかもしれない。
……もう遅いけど。
「不思議ね。長門さんが男の子を連れてくるなんて。…………まさか、無理矢理押しかけたんじゃないでしょうね」
それは誤解だ。招いたのはわたしの方なのだから。
…………考えてみれば、女一人暮らしの部屋に男の人を招くなんて、何か色々変な誤解をされそうなシチュエーションだったかもしれない。
彼に誤解されてないだろうか?
今更ながら、わたしはちょっと慌てた。
わたしは台所で皿と箸を用意しながら、考えていた。
あの人は、図書館でのことを覚えていなかったようだ。
そのことはとても悲しかったけど、でもまあ仕方ないのかもしれない。もうあれから半年も経っているのだから。
元はといえば、あの後すぐに行動できなかった自分が悪いのだ。
もっと早くに声をかけていれば、あの人も覚えていてくれたかもしれなかったのに。
…………この感情は何なのだろう。
最初は、親切にしてくれた彼にちゃんとお礼が言いたかったから、探していた。
でも、声をかける勇気が無くて、ずっと遠くから見ているだけだった。
そうして遠くから見ている内に、彼と言葉を交わしたい、もっと近くにいたいといつの間にか思うようになっていた。
…………この感情は何なのだろう。
わたしは箸と皿、それに練り辛子を持って台所から出た。
「あ」
ちょうどそこへ通りかかった彼とぶつかりそうになった。
その人は、鞄を手に持っている。
帰ってしまうのだろうか。
「帰るよ、やっぱり邪魔だろうしな」
やっぱり。
じゃな、とその人は言って立ち去ろうとする。
―――思わず、その人の袖を指で摘まんでいた。
思わず手が動いていた。
朝倉涼子と二人きりになるのが気詰まりだった、ということもあるけど、何よりこの人に帰って欲しくなかった。
わたしの気持ちが通じたのかどうなのかはわからない。
わからないけどその人は、
「――と、思ったが食う。うん、腹が減って死にそうだ。今すぐ何か腹に入れないと、家まで保ちそうも無いな」
そう言ってくれた。
わたしは安心して袖から指を離す。
居間で待っていた朝倉涼子が、含みのある笑顔を向けて来ていた。
相変わらず、彼女の料理は絶品だった。
彼が傍にいる緊張で、いつもにも増してゆっくりゆっくりとしか食べられなかったけど、美味しいことはわかった。
なるべくこの時間が続けばいいと思ったけど、やがて朝倉涼子が立ち上がる。
『あの人』もそれに習って立ち上がった。
今度こそ帰ってしまうようだ。さすがに泊まっていってなどとは言えず(言うつもりもないけど)、わたしは見送りのために玄関まで着いて行く。
「…………」
寂しくて俯いたままのわたしに、朝倉涼子が先に出たのを確認した彼が、声をかけてくれた。
「それじゃあな。明日も部室に行っていいか? 放課後さ、ここんとこ他に行く所がないんだよ」
わたしはゆっくりと顔を上げた。
嘘を吐いているようには見えない。また、明日も部室に来てくれる?
――――ふっと、心が温かくなった。
だから自然に微笑めたと思う。
今回だけは、上手く笑えた気がした。
朝倉涼子と彼が居なくなった後、わたしはカーテンもかかっていない窓から空を見上げた。
すっかり暗くなって、星が見えている。
何故だか懐かしい気がするので、よく見えるようにわざとカーテンはかけていないのだ。
わたしは空を仰いでそっと目を閉じた。
――――明日は、もう少しあの人と会話出来ますように。
わたしは、それだけを星に願った。
――――明日、何が起こるとも知らずに。
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