ことの発端は、結局のところ、やはりハルヒだった。
季節は春の始まり、そろそろ進級だと言う頃だ。
今日も今日とて部室に集まったSOS団の面々は、それぞれ思い思いの行動をして放課後の時間を過ごしていた。
他にやることがないのか、というツッコミはすでに俺がしているので却下する。
俺と古泉はボードゲームに興じ、朝比奈さんはこれまたいつも通りの格好でお茶を淹れてくれている。最近は砂時計でお茶が出る時間をきちんと測っている辺り、段々御茶入れがプロじみて来ている。
残りの団員の行動は言うまでもないだろう。
そして団長のハルヒもこれまた相変わらず……と言いたいところだが。いや、ある意味ではいつも通りだな。
何をしているのかというと、団長席に力なく突っ伏し、朝比奈さんの所有物である砂時計を指先で手持ちぶさたに弄んでいる。
なんでまたハルヒの元気がないのかというと、これが単純な話で、この一年間でもっと出来たことがなかったかどうかを考えているらしい。
「もっと色々出来たんじゃないかしら……なんか物足りないわ!」
なんてことをぶつぶつ言い出す始末だ。
俺はまた夏休みのような一年間無限ループことになるんじゃないかと、いやすでになっているんじゃないかと危惧したが、古泉に言わせればそれは杞憂らしかった。
「もしもまたこの一年をやり直すとしたら、これまでやってきたことを消してしまうことになりますから。そんなことを凉宮さんは望まないでしょう。それと、声に出して言っているうちは大丈夫ですよ。夏休みの時は何も言ってなかったのにあんなことになったでしょう?」
最後辺りの理屈はいまいちよくわからなかったが、ハルヒの精神関係についてはこいつが一番わかっているだろうから、俺は大丈夫なのだろうと思った。
正直なところ、俺達は甘過ぎたと言わざるを得ない。
ハルヒがあんな顔をしている時に何事もなく済むはずがなかったのだ。
ある日の放課後。
SOS団の本拠地、文芸部の部室にやってきた俺は朝比奈さん対策で軽くドアをノックする。
中からは沈黙が返ってきた。
まだ朝比奈さんは来てないのかと思いながら、ドアを開けかけ、唐突に感じた違和感に首を傾げた。
なんと表現するべきか……なんとなく、いつもドアの先に広がっているはずの空間の感覚が感じられないとでも言うか……とにかく、何処か妙な感じなのだ。
しかし、『どうせ気のせいだろう』と思い、俺はドアを開けて、表面上は何の変哲も無い部室の中に入った。
―――その瞬間、俺は自分がどこにいるのかわからなくなった。
視界が一変している。
「……っ?!」
驚いて俺が辺りを見渡すと、そこは見慣れた文芸部の部室などではなく、砂漠のように砂ばかりが景色を埋め尽くす場所だった。しかし、気温の方は先程までと何ら変わりないから、いきなり砂漠にきちまった訳じゃない。
どちらにせよ、これが規範の物理法則にくくられる現象なわけが無い。どこでもドアじゃあるまいし、ドアをくぐった途端訳の分からない場所に移動してたまるか。
普通なら何が起こっているのか分からずに混乱するのだろうが、幸いと言うべきだろう。俺はこの手の現象には心当たりがあった。
十中八九……ハルヒの仕業だ。
古泉が言った通り、一年をやり直すようなことはしなかったようだがその代わりにこんなことになったんだろう。やれやれだ。
だがこの空間がなんなのかまではわからない。多分閉鎖空間みたいなもんなんだろうが……。
「誰もいないのか……?」
俺は荒涼と広がる砂漠の景色を改めて見渡してみたが人影らしきものは見当たらない。
見渡してみて、俺は改めてこの空間の異常さに気が付いた。
足元に広がる地面は砂で構成されている。だから砂漠のようだと表現したのだが、この空間には砂漠にある起伏という奴が見当たらなかったのだ。
完全な平面が延々と広がっている。少なくとも見える範囲には丘も壁も何も存在していない。
更に視線を上に向けると、空は青色ではなくて白に近い灰色とでも言うべき色だった。向こう側が見えない曇り硝子の色と似ている。
その空に俺は何か妙な印象を受けた。
妙な印象の正体を突き止めるために俺は目を凝らしてみる。
すると、空が僅かに曲面となっていることが辛うじてわかった。相当遠いから確信はもてなかったが。
そしてその空はずっと遠くの方で上に向かっているように見えた。それはあたかもその一点から空が上に向かって吸い込まれているようで、穴が空に空いているようにも見える。
俺が思わず薄ら寒い感覚を覚えるのとほぼ同時。
「これはまた大変なことになりましたね」
背後から誰かの声が聞こえて来た。
俺が若干驚きながら振り替えると、安心するというよりもむしろ不安になるにこやかスマイルのSOS団副団長が立っていた。
もっとも、その胡散臭い笑顔もいまこの場においては心強い。
「古泉! お前もこの空間にきちまったのか?」
「はい、部室に入った途端に。気付かなかったとは迂濶でした」
そう言って古泉は肩を竦めた。
「俺もだ。嫌な予感はしてたんだけどな……この空間が何なのかわかるか?」
俺の問いに対して、古泉はすこしだけ考える素振りを見せた。
「恐らく……時間の流れに対して不満を抱いた凉宮さんのストレスが具象化したものではないかと」
「そりゃ確かに昨日ハルヒはそういうことをぼやいてたけどさ……なんで『時間に対して』って言いきれるんだ?」
俺が疑問をぶつけると、古泉はいつものゼロ円スマイルで説明を始めた。
微妙に嬉しそうなのはこいつが説明好きだからだ。小難しい屁理屈をこね回すのが好きとも言うが。
「まず、昨日凉宮さんが時間に対して不満をおっしゃっていたのが根拠の一つ目です。それはよろしいですね? 次にこの空間の光景を見てください。砂でしょう? 砂で構成されているもので、時間に関係があるものと言えば……」
そこまで言われれば俺も察することが出来た。
「砂時計か……!」
「ご明察ですが、先に言わないで欲しかったですね」
説明大好き人間の古泉は苦笑しながらそう言った。しかしそこまで付き合っていられるほど余裕はない。
「砂時計なら部室にあったし、昨日ハルヒが触ってたしな……」
俺の呟きに古泉は頷く。
「この空間が砂時計をベースにした空間だと考えれば、空が硝子のような色をしていたり、上に向かって窪んでいることも納得出来ます」
つまり、ここは砂時計の中みたいなもんか。
あの空の穴から砂でも落ちてきてたら、俺にもわかったんだがな。
「砂が落ちてきてないのは凉宮さんが時間を止めたいと願っているからでしょう」
成る程な。
時間を巻き戻すのは古泉の言っていた理由でなかったようだが、その代わりに時間を止める方に望みがいったって訳か。
「恐らくはそうでしょうね。さて、どうしましょう?」
どうしようかと言われてもな……そう言えば、長門や朝比奈さんはどうしてるんだ?ハルヒは掃除当番だったから暫くは来ないと思うが。
古泉は神妙な顔をする。
「まだ来ていないのでしょうか……長門さんならこの事態に気付いていると思うのですが」
と、その時。
「な、何ですかこれぇ……?」
背後から、震えている朝比奈さんの声が響いて来た。怯えて震える子兎のようだ。むしろそのものかもしれん。
あなたも踏み込んでしまったのですね。
とりあえず朝比奈さんに一通りの説明をすると、朝比奈さんは何か合点の言った顔をした。
「そっかー……さっきの長門さんはだから……」
さっきのってどういうことですか?
その俺の問いに対する答えを返してくれたのは朝比奈さんではなかった。
「異空間に入ろうとしていた朝比奈みくるを制止したが間に合わなかった」
こんな淡々とした語り口の奴は、一人しかいない。
俺が声のしてきた方を見ると、数年も前からそこにいたかのようなしっくり具合で、長門有希が棒立ちになっていた。
「長門!」
俺の呼び掛けに対し、万能なる宇宙人はいつもの無表情を返してくる。
「この空間は凉宮ハルヒの時空に対するストレスが具象化されたもの。砂時計がこの空間のベースになっている」
その長門の言葉で俺は古泉の予測があっていたことがわかった。
さすが、と言うべきなんだろうか?
「お褒めに預かり光栄ですね」
古泉は相変わらずの笑顔を浮かべているが、疑問は残る。
ハルヒのストレスって言えば閉鎖空間になるもんじゃなかったか?
その疑問に対し、長門は簡単に説明してくれた。
「今回のケースでは凉宮ハルヒは現実に対して不満を抱いているわけではないから」
すまん、もう少し詳しく頼む。
わかりそうでわからないぞその説明。現実に対して不満がないならそもそもこんな空間は出来ないんじゃないか?
長門は言葉を探すように数秒間沈黙し、それから口を開いた。
「凉宮ハルヒが閉鎖空間を作り出すのは現実に対して不満を抱き、その現実を打破、あるいは破壊したいと望んだ結果。だが今回のケースにおいては、凉宮ハルヒは現実を破壊したい訳ではなく、その現実が延長または続行することを望んでいる。ゆえにこのような空間が作り出された」
長門の説明は続く。
「本来なら異空間が出来るのではなく、部室内の時間のみが引き延ばされるのが妥当だったが、部室内に存在した砂時計を凉宮ハルヒが目視したために、凉宮ハルヒの脳内に砂時計イコール時間という構図が一時的に出来上がった。それゆえ、部室という空間に砂時計のイメージが自動的にフィードバックされ、このような異空間が構築される結果となった」
長門の説明を聴きながら、俺はふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「なあ長門、毎度のことだけどなんでそんなことがわかるんだ?」
「空間を解析し、その解析結果から的確に詰めていけば出現理由とそこに至るまでの過程をある程度理解出来る。勿論百パーセント完全に正しい訳ではない。しかし状況に対処するための分析ならその精度で十分」
成る程……まあ、難しいことは訊いてもわからんから訊かないようにしよう。
「で、どうすればこの空間から俺達は出られるんだ? はやくしないとハルヒが来ちまうぞ」
「この内部と外部では時間の流れが違うため、あと三十分ほどは余裕がある。……この空間から出るには、この空間の中心となっているエネルギー体を破壊すればいい」
以前のカマドウマと同じ要領ってわけだな。
「そのエネルギー体ってのはどこにいるんだ?」
見渡してみても、どこにも何もいないだが。見渡しているなんてことは有り得ない。物陰なんて一つもないのだ。
一応念のためもう一度見渡す俺に、長門が首を振ってみせた。
「これから具象化する」
長門は手を目の前に広げて掲げ、高速で呪文を呟いた。
一瞬空間が震えたような気がした次の瞬間、遠くの方の景色に変化が現れた。
「なんだありゃ……?」
「こっちに向かって来ているようですが……」
「な、何なんですかぁ、あれ?」
「この空間の中心となっているエネルギー体。この空間を維持する役割を持つ」
遠くの方で、砂埃が立っているのが見える。
その砂埃はだんだん大きく、つまり近付いて……っておい。何かでかいもんが向かってきているってことじゃないかひょっとして。
数十秒後。
「……あれ? 何もいなくないか?」
見えるのは砂埃だけだ。何か大きな生物か何かが走ってきているかと思ったのに。
「いえ、違います! あれは地面の下を潜ってきているのでは!?」
古泉がそう叫んだ瞬間だった。
一際大きな砂埃が立ち上がり、地面の下から巨大な生物が出現する。
「なんじゃありゃーっ!?」
絶叫しちまったのも無理は無いと思ってくれ。
体長数十メートルほどの、黄土色の体色をした生物……それは、巨大なヘビのような生き物だった。
しかしヘビには無い角があの丸い頭の後頭部付近から後ろに向かって生えていることから、唯のでかいヘビではない。
「ドラゴンッ!?」
「あれを倒せば、この空間は消滅する」
相変わらず欠片も慌てていない長門の言葉に、古泉が自分の掌を見た。
その掌に小さな光球が生み出される。
「僕の力も、有効なようですね。カマドウマの時の同じように、これで倒せってことでしょうか?」
古泉が長門を窺うようにしたが、長門は無視。
ただ一言。
「来る」
今まで砂の中から首を持ち上げていた状態で固まっていた怪物が、大きく咆哮しつつ、一気に突進してきた。
俺は咄嗟に朝比奈さんの手を引き、その場から離れる。
長門と古泉もその場を離れるのと同時に、いままで俺達が立っていた場所を怪物の一撃が深々と抉っていった。
もしもその場に留まっていたら、間違いなく死んでいただろう。
背中に嫌な汗が流れる。
「大丈夫ですか! 朝比奈さん」
「は、はい。あたしは大丈夫です。でも、他の二人は……?」
あの二人に対して俺達の心配は無用ですよ。特に長門はね。
怪物は手強い敵から排除しようとしているのだろう。逃げる長門を追いかける。
長門は朝倉戦で見せたような高速移動を繰り返し、怪物の突進を掠らせもしなかった。完全に長門に翻弄されている怪物に向かって、古泉がその手に生じさせた光球を投げつけた。
掛け声と共に放たれた光球は、狙い違わず怪物の側頭部に命中。
爆発が起こり、怪物が怒号を上げながらよろめいた。
怪物が体勢を立て直す前に、古泉は更に光球を連投する。
完全に怪物が体勢を崩して悶えている隙に、長門が俺と朝比奈さんの前にやって来た。
「わたしの後ろから動かないで」
仮にも女子に庇われていることに情けないとは思うが、この場合仕方無い。
と、怪物が大きく怒号するのと同時に、砂の中から持ち上げた長くででかい尻尾を俺達に向けて振るってきた。
あんな巨木みたいな尾に押し潰されたら確実に死ぬな。
「きゃあああああ!」
朝比奈さんは思わずと言った感じで悲鳴をあげたが、俺はそれほど恐怖は感じなかった。何せ、俺の前にいるのはSOS団最強の宇宙人なんだから。
長門は高速で呪文を詠唱し、バリアーを発生させて尾の一撃を受け止めた。
一瞬バリアーが軋んだように見えたが、激しく金属と金属が擦りあうような音が響いた後、怪物の尾が千切れて見当違いの方に飛んで言った。
化け物は悲鳴のような声を上げる。
正直、耳に痛い。
「これで終わりです!」
そう叫んだ古泉が一際大きい光球を怪物に向けて投げつけた。
大きな爆発が起こり、砂が巻き上げられて視界を遮った。
「やったか!?」
咄嗟に庇った朝比奈さんに砂が被らないようにしつつ、俺は目に砂が入りそうなのを我慢して薄目を空けて怪物がいた筈のところを見る。
長門は何も言わない。
……いや、言っていた。
「――――――――ま―――――――――――だ」
間延びした言い方をするなんて長門らしくない、と俺は違和感を覚える。
「キョンくん! みてください、あれ!」
やけにハキハキとした朝比奈さんの声が響き、これまた朝比奈さんには似つかわしくない俊敏な動きで指先が砂埃の立っている中心を指差した。
俺が指し示されたところを見ると、そこにはまだ怪物がいる。千切れ飛んだ尻尾の部分は砂が結集し、新しい尾となっていく。再生かよ。
くそ、まだ終わってないのか。
「古泉! 一気に片付けろ!」
俺がそう遠くの古泉に言うと、古泉がとんでもない高速で俺の傍まで移動してきた。
「!?」
まるで長門の高速移動みたいな速度で移動した古泉。
驚く俺に向かって、古泉が口を開いた。
だが、何を言っているのか、全く理解できない。
「は? 何言ってんだお前?」
俺の言葉に反応してか、古泉が何か言ったが、まるでビデオの早回しを聞いているようで言葉の意味が全く聞き取れなかった。そういえば、動きもビデオを早回しにしているような感じだ。
まるで長門の呪文を聴いているような…………。
ビデオの早回しのよう?
まさか!?
「時間が滅茶苦茶になってます!」
やっぱり朝比奈さんらしからぬハキハキ具合だ。
ぶっちゃけ、声だけ聴いたら朝比奈さんだとわからないかもしれない。
って、そんなこと言ってる場合じゃねーっ!
「ど、どういうことですか朝比奈さん!?」
「あたし達個人個人の時間の流れが遅くなったり速くなったりしてるの! 古泉くんは物凄く速く、あたしは少しだけ速く、キョン君は少しだけ遅く、長門さんは物凄く遅く! あの敵の時間は変わってないです!」
うわー、ほんとに朝比奈さんとは思えない素早い喋り方ー。
って、遠まわしに朝比奈さんを馬鹿にしちまってないか、俺。
いや、いまはそれはともかく、俺はいいとしても長門が遅くなったのはやばい。
何せ、単純戦力で言えば長門以上はいないからな。
と、その時。
今までじっとしていた怪物が、またも俺達に向けて突っ込んできた!
確かにさっきよりも僅かに速い気がする。
「危ねえ!」
俺は咄嗟に長門を押し倒して、怪物の突進の軌道から長門の身体を逃した。
朝比奈さんは怪物の軌道から外れていたこともあったが無事のようだ。
俺のからだの下にいる長門は、何か言おうとしているみたいだが、一言一言が遅すぎて何を言っているのか聞き取れない。
遅くなった長門でも一番の脅威と考えているのか、突進を外した怪物は再びこちらを向く。
くそ、とにかく逃げねえと。
さっきの突進のせいで、古泉や朝比奈さんとも距離が離れてしまった。時に古泉との間にはこの怪物がいるので易々と合流は出来なさそうだ。
とにかくその場に留まっているとやられると思った俺は、いまだ倒れたままの長門を抱えあげて走った。
俗に言う『お姫様抱っこ』という形になっているが、この状況じゃあそれを楽しむ余裕もない。
ちょっと顔を引き攣らせて、俺は無様に逃げ惑う。後ろの空間を怪物が通り過ぎる感覚が背中越しに感じられて、背筋が凍る。
思わず肩越しに振り返ると、数メートルの幅と深さに地面が抉られているのが見えた。うわー、すげえ溝……あんなんに巻き込まれたら洒落にならねえ。
挽き肉コースまっしぐらじゃねえか。
古泉の奴は何をしているんだと思ったら、千切れとんだ尻尾が分裂して生まれた小型のヘビどもの相手で背一杯のようだ。
ヘビは小さい上に速い動きで、高速古泉といえども容易く倒すことは出来ないようだ。朝比奈さんを脅威をと考えていないのか、朝比奈さんが敵に襲われていないのは不幸中の幸いとでも言えるが、俺達がピンチだ。
俺は長門を抱えて全力で走るが、怪物の方がどう考えたって速い。
しかもやけに俺は自分の体が重いことに気付いた。長門を抱えているからじゃない。人一人分の重さくらいはあるんだろうが、長門の体重は相当軽い。
体が重い理由がわからず、悩む俺の足元のすぐ傍を、巨大な質量が掠めていく。
その拍子に俺は脚を縺れさせて転んでしまった。体を捻って抱えている長門を押しつぶさないように出来たことは我ながら褒めてやりたい。
しかし完全に体勢が崩れているこの状況はやばい。
怪物が大きく首をしならせ、俺達を押しつぶそうと迫ってきた。
避けきれない。
咄嗟に怪物に背を向けて、腕の中の長門をしっかりと抱きしめて、せめて長門だけでもと思ったが、俺程度じゃ壁にもならない。
やけにリアルに挽き肉となる自分の光景が脳裏に浮かんだ。
しかし。
横から飛んできた無数の光球が、怪物に連続で命中し、巨大な怪物が見事に吹き飛んだ。
古泉だ。
俺が光球が飛んできた方を見ると、肩で息をしている古泉が投げ終わったフォームのまま、こちらを見ている。いつのまにやら、小さなヘビは全滅していた。
それもあって、相当体力を消耗しているのだろう。かなりきつそうだ。
だが古泉はそれでも止めなかった。
さらに光球を生み出し、連投。
古泉の時間が早回しになっているため、その光球の連投具合はもはやマシンガンの域だ。
全身くまなく光球の爆発に抉られた怪物が断末魔の悲鳴を上げて、頭の先から砂となって消滅していく。
「…………対象の消滅を確認」
久しぶりにいつもの長門の声が聞こえてきて、俺は時間の流れが元に戻ったことを知る。
「長門、大丈夫か? 時間は元に戻ったんだな?」
「問題ない。個々の時間経過速度は元に戻った」
そこまで長門が喋ってから、俺は長門をまだ抱きかかえていたことに気付いた。
そう、所謂『お姫様抱っこ』という奴で。
「す、すまん。いま降ろす」
俺が慌てて長門を降ろす。
長門はいつもの無表情を崩さなかったが、俺の方は少々顔が熱くなっていた。
しかしムードも何もなかったな。どうせするなら、もっと落ち着いた時にもっとこう格好良く颯爽と抱き上げてやりたかった……って何を考えているんだ俺は。
一瞬、足を怪我して動けなくなった長門を格好良く抱き上げる俺のイメージが浮かんだ…………いくらなんでもありえねーだろ……これは。どこのヒーローだ? 俺は。
首を振って不埒な想像を吹き払う。
その時、また空間が震えたかと思うと景色があっという間にいつもの部室に変わった。
「終わった……のか?」
消滅の呆気なさに俺が呆然と呟くと、
「終わった」
長門がいつもの冷静かつ端的な言葉で終了を告げてくれた。
俺はようやく一息を吐けたが、古泉が崩れるように膝を突いたため、また息を飲むことになった。
「古泉! 大丈夫か?!」
「さ、さすがに、五十連発は、やりすぎ、ましたか……ですが、大丈夫、です、よ。すぐ回復しますから」
そんなこと、息も絶え絶えに言っても説得力は皆無だぞ。
本気で大丈夫か古泉。
「能力を使いすぎたことによる一時的な身体機能不全。命に別状はない。休んでいれば回復する」
長門がそう言うからには大丈夫なんだろうが……。
俺と朝比奈さんが古泉を心配していると、丁度そこに我らが団長凉宮ハルヒがやって来た。もう少しあの怪物を倒すのが遅れたら危なかったな。
「遅れてごめーん! ……ってどうしたの古泉くん?!」
いつもの満面スマイルが、膝を突いて荒い呼吸を繰り返す古泉を見た途端に驚きの表情に変わった。
どう説明すべきか俺が悩んでいると、古泉が明らかに無理をしているとわかる笑顔でハルヒに言った。
「少し、立ち眩みを、起こしただけです、大丈夫ですから……」
「とても大丈夫そうには見えないわよ! ほら私に掴まりなさい! 保健室に行くわよ!」
俺に指示を出す間も惜しんだのか、ハルヒは自分で古泉を支えて保健室に連行していった。
古泉の困ったような横顔が嬉しそうに見えたのは多分気のせいではないだろう。
今回古泉は大活躍だったし、バチは当たるまい。
おろおろしていた朝比奈さんも慌てて二人の後を追い、部室には俺と長門が残された。俺も古泉を追いかけようとしたが、その前に長門に言っておくべきことがあったのを思い出した。
いつも通りの長門に声をかける。
「長門、さっきは咄嗟だったとはいえ、抱き上げたりして悪かったな」
「別に構わない。ただ、もし今後似通ったケースに直面した場合、わたし以外の者に対してわたしと同じ方法で対処するのはやめるべき」
…………えっと、それはなんでだ?
「時間経過速度の相対性の問題」
長門は相変わらず淡々と。
「わかりやすく説明すると、時間の経過速度が速いあなたが、時間経過の遅くなっていたわたしを抱えて走った時、空気の時間経過速度は変化していなかったため、わたしの体には飛行機の上にいるのと同等の空気抵抗による負荷がかかるところだった。その差異をわたしは情報操作による自時間の加速により無効化していたが、他の者にはわたしと同じことは出来ないから」
ええと、つまり……わかったようなわからんような。
まあ、要するにに長門じゃなかったらやばかったってことか。そういや、やけに体が重かった理由もそれだったのか? あれがもっと凄い負荷になるんだったら……確かにやばかったのかもしれん。
そういう意味か……まあ順当な理由と言えば順当な理由だよな。
まさか長門が自分以外の奴を抱き抱えて欲しくないとか思っているとか思っちまった。んなわけねえよな、長門に限って。
安心したような残念なような……って、残念ってなんだよ、俺。
しかしまあ危うく長門に怪我でもさせるとこだったんだよな……長門がハイスペックな宇宙人でよかったというべきだろう。
自分の時間を加速することまで出来るんだし……ん?
あれ、おかしくないか?
そもそも長門を俺が抱き上げたのは、長門の時間が遅くなったからで……自分の時間を加速させられるんだったら、俺の助けはいらなかったんじゃないか?
「あのさ長門……っていないし?!」
恐らく古泉の様子を見に保健室に向かったんだろうが……なんか上手いこと逃げられた気が……。
結局、長門の真意が明かされることはなかった。
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