喪失騒動




 最近、ハルヒはやけに大人しかった。
 教室では窓の外を見ているか、机に突っ伏して寝ているかのどちらかで、部室では活動時間中ずっとネットサーフィンをしている。
 これだけ大人しいと、反動で一体何が起こるのか怖いぜ。
 束の間の平和を噛み締めるべきなんだろうな、今は。
 でもまあ、何か起こるのは自明のことではあるし、あまり油断しているわけにもいくまい。ほら、良く言うだろ?『油断大敵』ってさ。
 …………と、まあこんな下らないことを考えられる程度には平和だった。
 そう、『平和だった』んだよ。








「長門、他の奴らはどうした?」
 放課後、俺がSOS団の部室に行くと、五月蝿い団長や癒し系のメイドもおらず、長門が一人で本の虫となっていた。
 その虫は本を黙々と読むのを一時中断して、こちらの方を向く。
「先程、出て行った」
 どこに。
「『すぐに戻る』と言っていた」
 つまりどこに行ったのかは言わなかったって訳か。
「そう」
 まあいいか。どうせすぐに帰ってくるだろ。
 そう思って、俺はハルヒ達が戻ってくるのを待つことにした。
 しかし待っている間は退屈だな。
「長門、本棚から適当な本を借りてもいいか?」
 たまには読書もいいだろう。
 一応この本棚の中に入っている本は部室の物であり、長門の承諾を得る必要はないのかもしれないが、長門が事実上、主のような存在になっているので、俺は長門に向けてそう問いかけた。
 長門は俺の言葉に軽く頷く。了承を得た俺は、さっそく面白そうな本を探すために本棚の前に立った。
 今更だが、かなり大量だよなあ。この量は。
 地震とかが来たら、本棚ごと崩れてきそうだ。本棚の上には本が詰められたダンボールもあるし、いずれ何とかしないと危ないかもしれないな。
 そんなことを考えつつ、俺は面白そうな本を探して視線をあちらこちらに動かす。
 しかし、最近はあまり本を読んでいないこともあり、何が面白そうかもわからなかった。
 こういう時こそ、SOS団の誇る読書娘が頼りになる。
「長門。お薦めとかあるか?」
 栞を本に挟んで本を閉じ、本を机の上に置いてから、長門は俺の隣に立って本棚から一冊の本を取り出した。
「これ」
「ありがとよ。お薦めの理由は?」
 何となく答えがわかっていたが、俺はあえて訊いてみた。
 長門は暫く考えて、
「ユニーク」
 と呟く。その答えが予測通りだったので、俺は思わず笑ってしまった。
 笑う俺を、長門が不思議そうな顔で見詰めている。
 俺は笑いながら、長門に謝る。
「いや、すまん、長門。別にお前の答えを笑ったわけじゃなくてだな、何というか、お前が俺の考えていた通りの答えを返したから、ちょっと面白くて」
 俺がそういっても長門は暫く不思議そうに首を傾げていたが、やがて無理矢理納得したのか、小さく頷いた。
 俺と長門は本を読むために自分の席に戻ろうとしたが、その寸前、
「ちょっと待ってくれ」
 俺は気になっていたことを思い出して、それを長門に確認するために長門の肩を掴んで長門を制止した。
 長門は俺の方を向いて、再び首を傾げる。
「そういえば、気になっていることがあるんだが…………」
「なに?」
「最近ハルヒはやけに大人しいけど、何か悪い兆候じゃないよな?」
「ない」
 長門はあっさりと、自信ありげに応えてくれた。
 さすがは長門。
「そうか」
 俺はほっと一息を吐いた。
 まさにその瞬間、
「たっだいまー。ごめんごめん遅くなっちゃった」
 朝比奈さん、古泉を引き連れたハルヒが部室のドアを勢い良く開けて入って来た。
 そのハルヒのでかい目が、ある一点で止まる。その一点とは―――
「…………ほーう。キョン君、何をしているのかな?」
 急に口調を変えてそんなことを言うから何かと思えば、ハルヒの視線は、長門の肩を掴んでいる俺の手に向いていた。
 げ。放すの忘れてた。
 慌てて手を放したがもう遅い。
「この、馬鹿キョンっ!」
 ハルヒの瞬速一投。何故か手に持っていた野球ボールを、俺の顔面に向けて放り投げて来た。
 ちなみにハルヒの投げる球は、大学生すら三振に切って取る凄まじい剛速球だ。


 やばい、死ぬかもしれん。


 しかし俺のすぐ隣には、そんな球など目ではないスピードで飛来してくる物でも弾いてしまう奴がいた。
 そう、長門だ。
 どうやら長門は親玉から俺とハルヒを守ることを義務付けられているらしく、俺などは幾度も危機を救われた。
 今回も例外ではなく、長門は俺とハルヒの間に目にも留まらぬ速さで割り込むと、これまた目にも留まらぬ速度で腕をふるってハルヒの剛速球を軽々と弾いた。
 弾かれたボールの軌道を追いかけた俺の視線は、ハルヒが放った怒号に、再びハルヒに吸い寄せられる。
「いくら認めたっていっても、不純交際は認めないわよ!」
 認めたって何を―――っっっ!?
 問いかけた俺の後頭部に、凄まじい衝撃が走った。
 弾かれたボールが壁に反射して返って来た、と思うだろうが違う。ボールが当たった衝撃ではなかった。
 ボールは壁で反射して、本棚の上に置かれた本が詰め込まれたダンボール箱に当たって、そのダンボール箱が落ちて来たのだ。
 つーかそんな重いもんが何で、たかがボールが当たった程度で落ちてくるんだ、とか思っても落ちてきたものは仕方ない。
 後頭部に走った凄まじい衝撃に、俺の視界は暗転した。






「…………ちょっと、こら、キョン!」
 誰かの声に叩き起こされて、俺は目を見開いた。
 すると、視界一杯にやたらと元気そうな奴の顔が。
「うおっ!?」
 思わず後ずさった俺を眺め、そいつはほっとしたように息を吐いた。
「もう、凄くいい音がしたから死んだかと思ったじゃない」
「全くです。永眠するにはまだ早すぎるでしょう」
「あのー…………大丈夫ですか?」
「…………」
 四人が俺を見下ろしていた。
 床に倒れていた俺は、ゆっくりと上体を起こす。
「あんた、大丈夫なの?」
「まだ無理はしないほうが良いかと思いますが?」
「キョンくん、平気?」
「…………」
 後頭部に鈍痛がする。
 周りを見渡してみた。本が散乱していて、俺のすぐ傍に本が半分くらい詰まったダンボール箱が落ちている。これが後頭部に直撃したようだ。
「いてて…………」
 首を動かした拍子に、後頭部に鋭い痛みが走り、俺は後頭部を手で押さえる。
 痛さで少し顔を顰めながら、俺は俺を覗き込んできている四人を見上げた。


「…………お前ら、誰?」


 俺がそう言った途端、部屋の中の動きが完全に静止した。








 どうやら、俺は記憶喪失という物になってしまったらしい。
「記憶喪失、と言っても、恐らく衝撃のために一時的に記憶が混乱しているだけでしょうから、すぐに元に戻ると思いますよ」
 こう言ったのは、爽やかなスポーツマンのような雰囲気を持っている細身の男―――古泉一樹というらしいが―――だ。
 如才無い笑みを浮かべてはいるが、俺は感覚的にこいつの笑顔は信用できないな、と思った。というかこの状況で笑みを浮かべている時点で少々問題ありだろ。
 しかし、俺は何のクラブに入部してるんだ? 室内ということから文科系ということはわかるが…………。
「ここはSOS団よ」
 何だ、その変なクラブ名は。同好会か? 何をするクラブなんだよ?
「宇宙人、未来人、超能力者に異世界人を見つけて一緒に遊ぶことよ」
 …………。
 俺は目の前の偉そうな美人―――涼宮ハルヒと言うらしい―――を見た。
 外見だけを見れば星三つ付けてもいいくらいなのに、多少中身はアレらしいな。
「キョン君大丈夫ですか…………? まだ痛い?」
 俺は水に浸されて冷たいタオルを後頭部に押し付けてくれているこれまた美人―――朝比奈みくるさんというらしい―――の声に少し後ろを振り返った。
「大丈夫です。大分痛みも引いてきました」
「そう、良かった」
 可愛らしい笑みを浮かべてくださる朝比奈さんに軽く微笑みを返して、俺は改めて正面を向いた。
「ところで―――」
 さっきから気になってるんだが、
「長門さんとやら…………何か言いたいことがあるのか?」
 俺はそう言いながら斜め前の席に座る女子生徒を見た。
 椅子に座って朝比奈さんの治療を受けている間、ずっとこちらを見詰めてきているのだ。全く表情の浮かんでいない顔で。
 俺が問いかけてからも、暫く長門さんは何も言わずじっと見詰めてきていたが、暫くすると少しだけ頭を下げた。
「あなたの負傷はわたしの不手際」
 …………いや、謝られても。しかも高校生にしてはやけに硬い言葉使いだな。
「謝られてもなあ。別に長門さんが悪いわけじゃないだろうし…………」
「謝罪も兼ねて、わたしの知る民間治療を提供したい」
 民間治療?
 俺が首を捻っていると、古泉というのがまるで長門さんに合わせるかのようにこんなことを言い出した。
「ああ、それはいいですね。長門さんはとある知り合いの飼い犬がかかった陽猫病を治療したこともありますし、凉宮さん、長門さんに任せてみてはいかがでしょう?」
 薄々、というかわかってはいたことだが、ここでは凉宮ハルヒが一番上の立場にいるようだ。実際、古泉とやらは涼宮ハルヒに向かって言っている。
 凉宮ハルヒは暫く考えていたが、やがて納得したのか軽く頷いた。
「そうね、有希に任せておけば大丈夫ね」
 凄い信頼だな。
 長門さんとやらを疑うつもりはないが、彼女が知る民間治療に効果があるかどうか。
 まあ、死ぬことは無いだろうし、試して貰おうじゃないか。
「ここでは無理。準備が必要。付いて来て」
 そういって長門さんは立ち上がり、歩き出した。
 俺は慌てて立ち上がる。
「大丈夫? 有希。準備、あたし達も手伝おうか?」
 凉宮ハルヒはそう言ったが、長門さんは首を横に振った。
「大丈夫。大した準備ではない。それに、わたしの知る治療法では、なるべく人が回りにいない状況が必要」
 要するに、付いて来られると逆に困るといいたいんだろう。凉宮ハルヒはそれを読み取ったらしく仕方無さそうに頷いた。
「わかったわ。じゃあキョンを頼んだわよ、有希」
 凉宮ハルヒのその言葉に送られて、俺と長門さんは部室から外に出た。








 長門さんはどうやら無口キャラらしく、一緒に路を歩いているとどうにも気まずい。
「なあ、長門さん」
「呼び捨てでいい。そう呼ばれていた」
「…………じゃあ、長門。どこに行くんだ?」
「わたしの家」
 なるほど、家か…………ってちょっと待て。
「家族とかいるんじゃあ?」
「いない」
 ちょっと深い事情がありそうだ。記憶を失う前の俺は知っているんだろうか。
 いや、待てよ。
「じゃあ、誰もいないのか?」
「そう」
「それてちょっとまずいんじゃあ…………」
「何が?」
 何がって、それは、ほれ、やっぱり女が男をだな、一人暮らしの部屋に入れるのはどうかと思うんだが…………。
 と、言ってやりたかったが上手く言葉に出来ず口の中でもごもごしていると、
「大丈夫」
 と長門が言った。
 何がだ。
「よくあること」
 よくあるのかっ?!
 おいおい、俺は一人暮らしの女の家に何度も上がりこんでいるのかよ。
 何やってるんだ、俺は。
「問題はない」
 大有りだよ。
 溜息を吐く俺を長門は不思議そうに小首を傾げて覗き込んで来た。
 しかし、それにしても長門は俺とどんな関係なんだろうか。あのSOS団とやらの仲間なんだろうか?何となくそれだけではない気もするんだが。
 少し考えてはみたが、記憶を失っている俺に何がわかるわけも無く、結局その後の道のりは無言のまま過ぎた。








 マンションの一室に通された後、長門は俺に向かって言う。
「治療を開始する」
 おお、頼むぜ。あれ、準備とかは?
「あれは凉宮ハルヒを納得させるための方便」
 どういうことだ。
「少ししゃがんで」
 無視かよ。
 まあいい。言われたとおりに少し屈んだ。
 長門の手が、俺の頭部に伸びる。
 俺が何をするつもりかとその手を眺めていると、
「情報操作、開始」
 突然、視界が暗転した。




「…………どう?」
 すぐ近くで長門の声がする。
 …………ああ、全部思い出した。治ったよ。
 目を閉じたままそういうと、長門の呟く声がした。
「そう」
「しかし、情報操作って記憶の改竄も出来るのか?」
「わたし単体で言えば、普通は出来ない。ただし、今回のような記憶喪失を修復することは出来る」
 以前長門が世界を改変した時は、ハルヒの力を使ったらしいしな。
「っていうかさ、長門」
「なに?」
「どうなってんだ、これ」
 目を開けると、真正面に長門の顔があった。その先には天井が。目を開ける前から感覚で何となく判っていたが、どうやら俺は長門に膝枕をされていたようだ。
 いや、これは結構恥ずかしいぞ。
「記憶の修正をした後、あなたが倒れこんできたので、咄嗟に受け止めた。暫く目を覚まさないようだったので、このような体勢で目が覚めるのを待っていた」
 淡々と言ってくれるな。恥ずかしがってる俺が馬鹿みたいだ。
 溜息を吐き、折角なのでもう少しこの体制のままでいることにした。
 しかし、それにしても。
「あんな重い物がハルヒのボールだけでよく落ちてきたよなあ」
「アレに関しては完全なイレギュラーだった。アレが落ちてくる確率は天文学的な数値を上回る」
 だから対応が遅れたって訳か。さすがはハルヒというべきか…………。
 まあ、即死しないで良かったぜ。
「防げなかったのはわたしの不手際」
 見上げているから分かり難いが、頭を少し下げたようだ。前髪が揺れる。
「いや、さっきも言ったけどいいって。こうして治してくれたんだしさ」
 そんなことより、もっと気になることがある。
 さっき路を歩いていた時に考えたことだ。
 あの時、俺は長門という存在を、『SOS団の仲間』であるだけとは思えなかった。
 改めて考えて見ても、俺は長門のことを唯の『SOS団の仲間』だとは考えられない。
 では、俺にとっての長門有希とは何なのか。
 記憶を失っていたときに感じた長門へのあの感情は何だったのか。


―――まだ、答えは出ない。









『馬鹿』終


補足
 この小説は、かつて『空之彼方』というサイトで受けたキリ番リクエストで書いた小説です。
 題名:『喪失騒動』・ヒット:31000・ゲッター:聖華様


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