俺の穏やかなる日常は、ある圧倒的な存在によって激変させられてしまった。
それは、一週間前のこと。
高校の入学式の日、俺は凉宮ハルヒ率いる『SOS団』なる組織によって戦いに巻き込まれ、わけのわからない理由から彼女達と行動を共にしなければならない状況に陥ってしまった。
そのSOS団の目的とは、そりゃもう古今東西、色んな物語で使いまわされてボロボロになっちまったような目的で、なんと『世界改変を行おうとしているある機関を止める』というものだった!
……おい、誰だ。いま笑った奴は。ここは笑うとこじゃない。
俺にとっては、それを目的にしているこの変な団が今の居場所なんだからな。
一瞬でも立ち止まったら、俺は凄く風通しのいい体に成れるだろう――そのことが嫌でも確信できる銃声の嵐が周囲を埋め尽くしている。
そんな恐怖の空間の中を俺は重い荷物を背負って爆走していた。
「急ぎなさいみくるちゃんに馬鹿キョン! 落としたりなんかしたら承知しないわよ!」
何で俺だけ馬鹿がつくんだ!
いや、朝比奈さんに馬鹿をつけろという意味じゃないが!
「急いでください。死にますよ。こう、頭が飛び散って――」
怖いことを笑いながら言うな!
お前の顔はその胡散臭い微笑みしか知らんのか!
「あと三十秒以内に建造物に入ることを推奨する」
三十秒以内に入らなかったらどうなるんだ!?
お前の言い方は無意味に怖い!
「頑張ってくださ〜い。キョンくん〜。あたし、あたしはもう……」
朝比奈さん、音をあげないでください! 死にますよ!
何とか三十秒以内に建物内に入れたようだ。
建物の入り口で、ハルヒと長門が追っ手の足止めをしている。
少しだけ休めるか?
俺がほっと一息を吐くのを待っていたかのように、古泉の奴がにっこりと笑った。
「申し訳ありませんが、まだ走らないと危ないですよ?」
……なら、もっと早くに言ってくれ。
その言葉が喉元まで出掛けたが、なぜか俺のことを目の敵にしている古泉に下手なことは言わない方がいいと判断して、俺は言うのを諦めた。
荷物を背負い直し、動き出す。
「朝比奈さん、大丈夫ですか」
俺より大分軽い荷物を背負っている筈なのに、息も絶え絶えの朝比奈さんにそう声をかけると、朝比奈さんは気丈にも微笑んでみせた。
「大丈夫です、ありがとうキョンくん」
あー。すげえ癒されるー。
色々最悪の状況だが、これだけが俺の癒しだ。
これが無ければ、もうとっくに首を吊って死んでいたかもしれない。
本当に、あなたは俺にとって命の恩人ですよ。
古泉や長門と違って、俺に近い立場のような気もするし。
「ほらほら、立ち止まってないで急いでください」
わかってるっつーの、古泉。俺の至福の瞬間を邪魔するんじゃねえよ。
俺は全力で走った。
裏側から建物を出るとそこは海になっていて、小さなモーターボートが浮かんでいた。
車程度の大きさで、座席の配置も普通の自家用車のように前に操縦席と助手席、その後ろには三人が並んで座れる――というようになっている。
古泉が操縦席に滑り込み、後ろの席を俺達に示す。
それに跳び乗った俺と朝比奈さん。ようやく荷物を降ろせて、一息つくことが出来た。
古泉は陸に向けてマシンガンを構えている。
さほど待つこともなく、ハルヒと長門の二人が跳び出して来た。
長門は出るときに建物の中に向けて手榴弾らしきものを投擲した。
爆発が建物の中で起こっているのが、衝撃と音でわかる。
「古泉くん! 出して!」
「了解です!」
運転席の横の席に飛び込んだハルヒの号令に、古泉が素早く反応してボートを発進させる。
長門は寸前で俺の右横に滑り込んだ。朝比奈さんが左側にいるので両手に花状態と言えなくもないが、こんな殺伐とした状況では喜びなど微塵もない。
あまりに急な加速だったので、朝比奈さんがよろめき、俺の方に倒れ込んでくる。
朝比奈さんの小さな頭が、俺の顎に見事にヒットした。あまりの痛みにちょっと気が遠くなった。
「ご、ごめんなさい! キョンくん!」
俺の膝の上に倒れ込んだ朝比奈さんが、慌てて謝ってくる。
大丈夫です……が、大きな胸が当たってるんですけど。
しかし加速するボートの上ではどうすることも出来ず、俺達はそのままの体勢で暫く我慢しなければならなかった。
建物から出て来た敵兵がボート上の俺達に向かって一斉に機関銃の掃射をかけてくる。
咄嗟に俺は頭を低くして、朝比奈さんを腕の中に庇った。
「当たらないわよ! 全然大したタマじゃないわ!」
いや、大したタマとかそうじゃないタマとかあるのかよ。
どっちにしても、当たったら終わりだろうが。
俺が継続して頭を低くしていると。
――突然、その頭に衝撃が走った。
銃弾が当たったわけじゃない。それならその時点で死んでいる。
俺が顔を上げようとすると、両肩の後ろから細い足が跳び出しているのが見えた。
「そのまま」
淡白な物言いが頭の上から聞こえてきて、俺は肩の上に長門が乗っていることに気付く。
長門は俺の上に肩車のようにして乗っかっていた。
「おいっ」
思ったほどの重さはない。とはいえ、肩車の姿勢ということは、つまりはあの部分が俺の首筋に当たっているというわけで……。
そんな場合ではないと思いつつも、俺は焦った。
俺のそんな青少年らしい焦りなど長門にとってはどうでもいいことなのだろう。
長門はその体勢のまま、陸に向かってマシンガンを掃射する。
こちらを狙っていた敵が片端から倒れていくのが見えた。
相変わらず、正確無比な射撃だ……しかし、何故この体勢になる必要が?
暫くして、俺達はかなり沖に出ていた。
今のところ、追っ手が来る様子はない。
夜で真っ暗な海の上で、モーターボートが放つ光だけが光源だった。
「ふう。何とか逃げ切れたわね。よくやったわ、皆! これでSOS団はまた一歩目標に近付いて――」
満面の笑みを浮かべて後部座席を振り向いたハルヒが、そのまま固まる。
さっきまで明るい笑いだったのに、一瞬で見る者を震え上がらせる冷笑に変わった。
「キョン? 何をやっているのかしら?」
「……文句は長門に言ってくれ」
俺はまだ長門を肩車していた。
もう敵の姿も見えないし、そうしている理由があるとも思えないが、何故か長門は降りてくれなかった。
ちなみに。
俺は長門に乗られている関係上、身体が折れ曲がったままで起こせず、腕の中に庇った朝比奈さんを解放することが出来ない。
窒息しないようにはしているが、さきほどから朝比奈さんはじたばたと手足を動かしてもがいている。
端から見れば、それはもうシェールな光景だろう。
しかも、何故かその光景を見ているハルヒの機嫌はどんどん悪くなってるし……。
その時、古泉が助け舟を出してくれた。
「長門さんは敵の攻撃を警戒しているのでしょう。少しでも視線を高くして、遠くまで見渡せるようにしているのですね。彼の横に座ると座高の関係上、彼の身体が邪魔になって一部の方向が見えませんし」
それから、と古泉は俺の腕の中でもがいている朝比奈さんを見た。
「朝比奈さんを抱えているのは、発進したばかりの頃に彼が銃弾から庇ったからでしょう。いまも抱えているのは、長門さんが乗っているために身体を起こすことが出来ないからだと推測します」
その通りだ古泉!
「……ああ、そういうことだったの。有希、もう降りていいわよ。視界は開けてるから、敵が近付いて来たらすぐわかるし」
ハルヒの表情が和らいだ。長門もハルヒの命令には素直に従い、俺の隣に普通に腰掛けた。
ああ、古泉。お前はなんていい奴なんだ! いけ好かない奴だと思っていた俺を許してくれ!
「……と、いうのは僕の推測ですから、真実は違う可能性もありますね」
余計な一言を加えるんじゃねえよ!!
おかげでハルヒの視線がまた冷たいものになっちまったじゃねえか!
「いや、古泉の言う通りだ! すげえな! ばっちり推論どおりだ!」
「へえ、そう」
にっこりと笑うハルヒ。
俺も辛うじて引き攣った笑顔を返す。
何とか今日も無事に生き残れたか……。
「――ところで、キョン?」
「いつまでみくるちゃんを抱えてるつもり? もう有希は降りてるわよ?」
あ。
俺が自分の失敗に気付いたその瞬間、ハルヒの正拳突きが顔面に入った。
鼻血は出なかったが……かなり、痛かった。
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