涼宮ハルヒの消失
〜長門視点〜

第五章




 入部届けをあの人に渡した次の日。


 わたしはどことなく心ここにあらずだった。
 咄嗟に入部届けを渡してしまったけど、変な奴だと思われなかっただろうか。
 いきなり飛び込んできて、襲い掛かり同然のことをされた後だったから、客観的に見ておかしな行動だったと自分でも思う。
 でも、わたしにはあれくらいしか出来なかった。
 何か適当な理由でも付けないと、また来て欲しいと言えなかった。
 あの人が、どういう理由で部室に突然来たのかはわからないけど、とにかく関係を維持したかった。
 またあの人が部室に来てくれるかどうかはわからなかったけど。








 その日の放課後。
 わたしはいつも通り部室に来て、一人で本を読んでいた。
 あの人は来ない。
 わたしがページを捲る音以外、何の音もしない。
 こうしていると、昨日のことが夢だったような気がしてくる。
 ずっと孤独に過ごしていたから、幻覚でも見たのではないだろうか?
 そして、それを確かめることも出来ない。
 …………哀しくなってきた。
 と、その時。
 廊下から、一つ『違う』足音が聴こえて来た。
 何が『違う』のか、自分でもわからないけど、その足音は確かにこの部室に向かっている気がする。
 …………あの人?
 わたしは姿勢を維持したまま、その足音を聴く。
 その足音が部室の前で立ち止まる。
 まさか、本当に。
 期待と、それに反する無意識の否定がわたしの胸の内で競り合う。
 過度の期待は、裏切られた時の衝撃が大きい。だからわたしは何も考えないように、意図的に努力する。


 ―――ノックの音が部室内に響く。


 鼓動が、高まった。
 期待とそれを否定する気持ち、それが更に高まる。
 わたしは小さく返答を返した。
 ドアが開く音がする。
 それと同時にわたしは本から顔を上げ、来た人の姿を確認した。
 それはやはり、あの人だった。
 視線をその人の顔で一秒すら固定できず、思わず視線を流して再び手元の本に落とした。
 来てくれた。
 唯、それだけでも嬉しかった。
「また来て良かったか」
 こくりと、頷きを返す。来て良かったどころか、来て欲しかったのだから。
 この人が来てくれた時のために、色々と話すことを考えていたのだけど、いざこの時になると全然言葉が出て来ない。
 沈黙が苦しい。何か話しかけて来てくれた時の返答も考えられる範囲で考えている。
 何か話し掛けて来て欲しい…………いや、人まかせじゃ駄目だ。
 内心でそんなことを考えていると、その人が話しかけて来てくれた。
 その人は部室にある本棚に視線を向けている。
「全部お前の本か?」
 それは予想していた問いかけだった。
 だからすぐさま答えを返せた。
「前から置いてあったのもある」
 そう言って、わたしはいま読んでいる本を持ち上げて、背表紙をその人に見せた。
「これは借りたもの。市立図書館から」
 ひょっとしたら、と思ってあえて選んだ本だった。
 さりげなく市立図書館の名前を出したつもりだった。
 ひょっとしたら。
 ひょっとしたら図書館の名前を出せばそこでわたしを助けてくれたことを、思い出してくれるかもと思ったから。
 でも、せっかく仕掛けた本は意味が無かったようだ。
 その人は、図書館の名前に大した反応を見せなかったのだから。
 わたしは内心がっかりしながら、本を手元に戻して再び読み始めるフリをし始める。
 沈黙。適当な話題をその人は探しているようだった。
 わたしから話題を振れればいいのだが、それが出来ない自分が嫌になる。
「小説、自分で書いたりしないのか?」
 そう言われて、別の意味で心臓が跳ねた。横目で部室に置いてあるパソコンを盗み見る。
 パソコンの中身は見られてないはず。だから、嘘をついても多分大丈夫。
 そんなことを考えていたので、返答するまでに四分の三拍子ほど間が出来てしまった。
「読むだけ」
 それからわたしはまた沈黙するしかなかった。
「…………」
 その人も無言。
 本棚から本を一冊取り出したのか、ぺらぺらとページが捲られる音がする。
 同時に、はらりと何かが落ちる音がした。
 いくつかの本には、わたしが読んだ時に挟んでいた栞が挟んだままになっているから恐らくそれが落ちた音だろう。
 わたしが何か話題を探していると、急にわたしの前にその人が移動してきた。
 急に来られたので、少し驚く。
 目を見開くわたしの前に、その人が何かを差し出した。
「これを書いたのはお前か?」
 その人が指し示している栞の裏側には、見たことのある字が書かれていた。
 でも、わたしには書いた覚えが無い文。
 だからわたしは正直に答えた。
「わたしの字に似ている。でも…………知らない。書いた覚えがない」
 そうわたしが言うと、その人は、
「…………そうか。そうだろうな。いやいいんだ。知ってたらこっちが困っていたところだ。ちょっと…………」
 言い訳めいた台詞を呟きながら、何か考えているようだった。
 わたしには、何のことか全然わからない。
 暫く何かを考え込んでいたその人はやがて本棚の前に戻って、本棚に並ぶ本を一冊ずつ出してはページをペラペラ捲り、それが終わると本を戻して次の本を。 そしてそれが終わったらまた次の…………と、本棚の端から端までその作業を続けていた。
 あっけに取られて見ていたわたしの視線も意に介さず、その人は本を端から端まで調べ終えた。
 そして再び考え込み始めた。
 わたしに断ってお弁当を広げて食べていた時も、ずっと何かを考えているようだった。時折わたしが見ていることにも気付かないくらいに。
 意識されていないことが、少し寂しかった。
 諦めてわたしは手元の本に視線を落とす。




 ふと、視線を感じた。




 視線をその人に向けると、わたしの方をその人が見ている。
 慌てて視線を手元の本に戻す。
 人に注目されていることに慣れておらず、極度の照れ屋の(自覚している)わたしは、すぐに顔が赤くなる。
 何とか平静に、落ち着こうと思うのだけど、意識しないようにすればするほど、意識してしまって顔が更に赤くなっていくのがわかった。
 …………どう見られているのか、凄く気になる。
 けど、それを訊く勇気も無い。
 会話がない無言の時間が延々と続く。
 わたしは、その無言の時間の中であることを言い出せずにいた。
 それは、図書館でのこと。
 この人はそれを覚えているのか、忘れているのか。
 知りたかった。
 ―――けど、訊けなかった。








 西日が部室に差込始め、太陽が校舎の影に隠れるそうな時間になった。
 相変わらず無言の空間だった部室に、久しぶりに声が響いた。
「今日は帰るよ」
 その人が、そう言って立ち上がった。
「そう」
 その人が言い出すのを待っていたわけではないけども、何かきっかけを待っていた。
 だからその人の言葉をきっかけに、わたしも読んでいるフリをしていたハードカバーを鞄に入れて立ち上がる。
 わたしがその人が動き出すのを待っていると、不意にその人が口を開いた。
「なあ、長門」
「なに?」
「お前、一人暮らしだっけ」
 何で知ってるんだろう。
「…………そう」
 わたしがそう答えると、その人はこう言った。
「猫でも飼ったらどうだ。いいぞ、猫は」
 この人は猫を飼っているらしい。その後も色々猫について語ってくれたが、残念ながら飼うことは不可能だ。
「ペット禁止」
 住んでいるマンションはペット禁止なのだ。そうでなければ、猫でも飼っていただろう。
 わたしの家は家具という物自体が少なくて、殺風景もいいところだから。
 寂しいのを紛らわせる動物は、飼えるのなら飼いたかったものだ。
 あの殺風景な部屋が役立つとすれば、急に来客が来ても安心だという一点だけだろう。
 ――――その時、閃いた。
 決心が鈍らないうちに、言葉にする。
「来る?」
「どこに?」
 とその人。当然の質問だ。
「わたしの家」
 その人の表情が固まった気がした。それはそうだろう。いきなり家に誘われたら、誰だってそんな顔をする。
「…………いいのか?」
「いい」
 言いながらわたしは部室を出る。
 後を付いてくるその人の存在を感じながら、わたしは覚悟を決めていた。




 図書館でのことを、覚えているのか覚えていないのか。
 それをこの人に訊く覚悟を。








最終章に続く
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